いきもの通信 Vol.40[OPINION]問「人間とムツゴロウ、どちらが大事か?」——答「もちろん、ムツゴロウだ!」 

Vol. 40(2000/4/9)

[OPINION]問「人間とムツゴロウ、どちらが大事か?」
——答「もちろん、ムツゴロウだ!」

諌早湾の干拓堤防の閉め切りから3年がたちました。当時、象徴的に言われた言葉の1つに「人間とムツゴロウ、どちらが大事か?」というものがあります。私はこの言葉にひっかかるものがずっとあったので、今回はこの言葉に対する私見を書いてみたいと思います。


その前に、この言葉は誰が言ったことなのか、当時の情況はどうだったのかを振り返ってみます。3年もたつと記憶に残らないくらいいろいろな事が起こっています。私も当時のことはきちんと覚えていませんので、朝日新聞の縮刷版で調べてきました。(以下の日付は新聞掲載の日付です。実際の事件が発生した日付とずれることがありますので注意してください。)

例の言葉は誰か政治家が言ったことに違いないし、諌早湾干拓は政治問題化してしまったので、当時の政治情況の説明を省くことはできません。当時、政権は自社さ連立政権(自民党、社民党、さきがけ)で、首相は橋本龍太郎(1996年1月就任)でした。春先は通常国会で予算案審議が盛り上がるころですが、1997年は3月28日に早々と成立。政治の焦点は他に移らざるを得ませんでした。
1997年4月といえば、忘れてはならないことがあります。4月1日から消費税が5%になったのです。当時、景気は再び上昇を始めようかという機運があり、消費税アップも問題ないと思われたのですが、消費行動は一気に冷却、同年11月の北海道拓殖銀行、山一證券の破綻の伏線となったのでした。
さて、諌早湾の堤防が閉じられたのは4月14日(月)でした。これについては夕刊1面でも報じられています。ただし、1面トップは連続幼女誘拐殺人事件での東京地裁による宮崎勤被告の死刑判決でした。また、同じ1面ではタイガー・ウッズがマスターズで最年少優勝したことを報じています。
16日(水)朝刊の社説では諌早湾のことが取り上げられています。この後、4月の新聞では諌早湾は散発的に取り上げられたにすぎません。テレビでは堤防の閉め切りが放映され、「ギロチン」と形容されたりしたのですが、実際の抗議行動は4月時点では環境保護団体に限られていたようです。ただし、地元の人たちによるムツゴロウ救出作業は始まっていました。
4月といえば、もうひとつ大事件がありました。ペルーの日本大使公邸人質事件が特殊部隊の強襲により解決したことです(23日(水)夕刊)。そういうこともあったなあ、と私も思いましたし、皆さんも忘れていたでしょう? この事件は数日間新聞をにぎわしました。
さて、5月になり連休が明けたころから諌早湾の話題が増えてきます。まず、8日(木)に民主党の管直人代表が諌早湾干拓事業の差し止め訴訟を検討するとの報道がありました。当時は公共事業の無駄遣いが問題になっていたため、ちょうど良い対象になったのでしょう。翌9日(金)、ここで問題の発言がありました。亀井静香建設相(自民)の発言を紙面のまま紹介しますと、「世界の食糧事情がトータルでひっ迫していけば、日本だけ食糧があふれるということはあり得ない。長期的に良好な農地を確保することは意味がないとはいえない」、「自然環境は守らなければならない。ムツゴロウも大事だが、人間が一番大事だ。」というものでした。「人間とムツゴロウ、どちらが大事か?」という言葉とは微妙に文脈が違うことに注意してください。ただ、この亀井発言がいわゆる「人間とムツゴロウ」発言であることは間違いありません。
市民団体、政党の活動が活発になったのもこの頃からです。12日(月)には超党派国会議員の「公共事業チェックを実現する議員の会」が諌早湾を視察、管直人が農水省の現地幹部に排水門を開けるよう迫っています。13日(火)は民主党が通常国会終盤で諌早湾干拓見直しへの取り組みに重点を置くことが報じられています。一方の政府・自民党側は21日(水)、閣僚懇談会で事業続行を申し合わせました。その時の発言より。藤本孝雄農水相「諌早湾は高潮に悩まされてきた。防災面からも干拓は大変な効果がある」。梶山静六官房長官「生物保護という一点で、人間の存在を忘れてはいけない」。「防災目的」の発言が出たのはこの時が初めてです。諌早湾干拓は農水省の事業、それとは関係ない「防災」発言はいかにも後付けの印象があります。が、「防災目的」は政府側の反論の1つの柱になりました。
こういう問題が起これば、普通なら反対にまわるはずの社民党、さきがけは連立政権側にいるため、発言はほとんどないか、非常に歯切れの悪いものとなっています。そのため諌早湾問題については主に民主党と共産党が攻めたてる形になりました。このことについて、自民党側では「夏の東京都議選に向けた民主党のパフォーマンス」との見方もありました。諌早湾問題は政治の駆け引きの道具となっていったのでした。
27日(火)夕刊、また大事件が起こります。神戸市で小学校6年生の男児が殺害された事件、いわゆる「酒鬼薔薇」事件が起こったのです。
諌早湾問題の新聞記事は5月をピークに減り始め、8月以降はほとんど紙面に登場しなくなります。あれほど盛り上げておいた政党はどこへ行ってしまったのか?と思わざるを得ません。
そして、11月の北海道拓殖銀行、山一證券の破綻。景気は一気に落ち込むのです。翌1998年7月の参議院選挙で自民党は惨敗。小渕恵三が首相に就任します。


「人間とムツゴロウ、どちらが大事か?」。この究極の選択のような問いは今後も公共事業が争点になるたびに似たような言葉が叫ばれることでしょう。当時、この発言については「極論過ぎる」ということでまともに取り上げられることはありませんでした。ただ、この発言は本質的を突いていますし、また環境保護論の弱点をも突いています。「そりゃやっぱり人間が大事だから…」という本音があるために、意図的にこの論争は避けられていたように私には見えるのでした。
私自身のこの問いに対する答は「ムツゴロウの方が大事だ!」です。これまた極論なのでしょうが、勇気をもってあえてそう言いたいのです。
ムツゴロウが生息するのは有明海全体に渡っており、諌早湾だけではありません。ですが、ここでムツゴロウ保護を後退させてしまうと、同じような論理で次々と後退してしまうような気がしてしまうのです。「ムツゴロウはまだ他にもいるのだから、ここは干拓しても大丈夫」と。そうして最後にはムツゴロウの個体群が維持できないほどまで追い込まれるのではないでしょうか。そうなってからでは遅いのです。できるだけ早い段階で阻止しておかないと間に合わないのです。
「ムツゴロウは他にもいる」という意見にもいやな感じを受けます。これを人間に置き換えてみれば、「これから東京都杉並区(←ここはあなたの住んでいる場所に置き換えてみてください)を全部埋めてしまうので、住民の皆さんは死んでください」と言っているのと同じことなのです。人間は引っ越すことができるので、まだましかもしれません。しかし、ムツゴロウはその場で死を迎えるしかないのです。人間に対してはこのようなことが許されないに、ムツゴロウなら許されるというのも私には納得できないことです。

「人間とムツゴロウ、どちらが大事か?」——諌早湾を干拓すればそこにいるムツゴロウは死滅します。逆に干拓をしなかった場合、人間は死ぬでしょうか? 誰一人死ぬことはないでしょう。だから、この問いに対する私の答は「ムツゴロウの方が大事!」なのです。農地が足りないといっても、米余りで減反を奨励している現状では説得力がありません。

そして、もうひとつ忘れてはならないことは、そこにいるのはムツゴロウだけではないのです。他のハゼ類(ムツゴロウもハゼの仲間)、カニなどの節足動物、底生の小型動物が無数にそこで生きているのです。私が思うに、日本人は陸上のことに比べて水中のことへの関心が非常に低いようです。埋め立て、干拓、ダム、堤防、コンクリート護岸…水の中には誰もいないし、何もない、誰のものでもないという思い込みのために、これまでどんなに多くの生物が犠牲になってきたことでしょうか。そこには生物がいるということを日本人はもっと自覚しなければならないと思うのです。


さて、この「いきもの通信」は連載開始から1年になりました。さすがに毎週書くのは無理ですが、今後もこの調子で書いていきたいと思います。

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