Vol. 326(2006/7/23)

[今日の勉強]タヌキとアライグマの長い長い歴史の物語・その2

シーボルト、タヌキに出会う

舞台は日本に移ります。
伊能忠敬といえば、非常に正確な日本地図を初めて作成したことで有名な人物です。その伊能が死去したのは1818年。彼がやり残した「大日本沿海輿地全図」が完成したのは1821年のことでした。
そのすぐ後の1823年、長崎にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(ドイツ人、1796-1866)がやってきます。本来なら当時日本に入国できたのはオランダ人だけなのですが、シーボルトはオランダに雇われていたこともあって、オランダ人として来日したようです。シーボルトは日本滞在中に政治・経済・社会などあらゆる分野の情報を収集します。動物、植物については実物を収集し、標本としてオランダへ送りました。
シーボルトの収集した動物は哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、その他無脊椎動物など非常に多方面に渡るものでした。主要な日本産動物はだいたい網羅しているのではないかと思われるほどです。そして、その中には当然タヌキも含まれていました。個々の動物をどうやって収集したかは今となっては不明ですが、日本人の知人や商人を通じて入手したようです。シーボルトの私塾「鳴滝塾」の人脈も活用されたことでしょう。外国人は基本的に出島から出られず(鳴滝塾は例外的に出島の外にあった)、江戸への旅行(1823年にオランダ商館長に随行している)も街道から遠く離れることはできなかったはずで、そういった制約下で大量の標本を収集したシーボルトの仕事ぶりは驚くべきものがあります。
そんな中、いわゆる「シーボルト事件」(1828年)が起こります。この事件はシーボルトが日本地図を国外に持ち出そうとしたため、関係者が処分され、シーボルトは国外追放(1829年)になったというものです。問題の地図とは伊能忠敬が製作したもので、当時の日本地図としては最も精密なものでした。そのため諸外国にとってはのどから手が出るほどほしいものだったはずです。こう書くとシーボルトは極悪人のようですが、ヨーロッパ人から見れば未知の国である日本の情報が何としてもほしいのは当然のことです。また、彼の膨大な動植物標本を見るとスパイというより博物学的興味がかなり強かったのではないかと思うのです。
シーボルトは日本から追放されてしまいますが、彼の仕事が終わったわけではありませんでした。

余談になりますが、シーボルトが日本を離れた頃、後に進化論を唱えたチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin、イギリス人、1809-1882)がビーグル号の世界一周航海に参加しています。その航海は1831〜1836年のことでした。シーボルトとダーウィンは同時代の人なのです。

ヨーロッパに紹介された日本産動物たち

シーボルトが日本から送った動植物標本は、オランダのライデン王立自然史博物館へ届いていました。ライデン王立自然史博物館は1820年に設立されたばかりの新しい博物館で、初代館長はコンラート・ヤコブ・テミンク(Coenraad Jacob Temminck、1778-1858)でした。
シーボルトが収集した標本に基づいて、テミンクらは研究を進めます。動物の担当は、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類をテミンクとシュレーゲル(Hermann Schlegel、1804-1884、後に同博物館の第2代館長)が、甲殻類をドゥ・ハーン(Wilhem De Haan,1801-1855)が受け持ちました。研究成果は「日本動物誌(Fauna Japonica)」としてまとめられ、1833年から1850年にかけて順次刊行されました。これには約800種が記載されました。この中には当時ヨーロッパでは知られていなかった多数の「新種」が含まれていました。
さて、その「日本動物誌」ですが、同書は日本には約10セットしかないと言われる貴重品です。というのも、図版の彩色が手作業によるものだったようで(単色部分は石版刷り)、それほど多量に発行されなかったようなのです(おそらくカラー印刷が難しかった時代なんですね)。一般書にもなっていないようなので、普通の人は見ることのできないものです。しかし今ではありがたいことにインターネット上で閲覧することができます。

京都大学電子図書館
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b05/b05cont.html

福岡県立図書館
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/tosho/siebold_digi-lib.html

「日本動物誌」の図版は現代でも十分通用する非常に美しいものです。タヌキに限らず興味ある生物がいたらぜひ図版をご覧ください。江戸時代は日本でも各地の大名が特産物などを博物図譜として残していますが、その図版はヨーロッパの博物画と比べるとかなり見劣りするものです。
ここで「日本動物誌」の図版についてちょっと私の注釈を加えますと、哺乳類は生きている本物を見て描いたのではないと思われます。おそらく毛皮と骨だけを見て描いたのではないでしょうか。フォルムやポーズがあやしいものが若干あるためそう推測しているのです。タヌキは夏毛だとしてもスリムすぎる印象です。
ちなみに、魚類はさすがに新鮮なうちに記録しなければならないので、日本人の画家が下書きをしたそうです。

さて、ここでようやくタヌキの話に戻ります。
この「日本動物誌」にはタヌキが紹介され、学名もつけられています。それは1844年のことでした。アライグマよりはるかに遅れてようやくヨーロッパ人にタヌキが紹介されたのでした。ヨーロッパ人にとってはタヌキよりもアライグマの方がなじみある動物だったはずで、タヌキの名前が「アライグマみたいな犬」となってしまうのは仕方のないことでした。

さて、「日本動物誌」について長々と書いてきましたが、この本はタヌキが主役の本ではなく、実はもっとすごいものなのだということも書いておかねばなりません。この本には800種の動物が載っていることは既に書きましたが、その中にはニホンオオカミ、トキ、オオサンショウウオ、メダカなどといったものが含まれています。これら日本特産種をヨーロッパに伝えたのが「日本動物誌」であり、また、学名がつけられたのもこの本によってなのです。つまり、日本産動物の分類をきちんと行った最初の本がこの「日本動物誌」なのです。日本の近代動物学はここから始まったと言えます。

学名をつけるには基準となる標本も必ず必要となります。写真や絵では証拠にならないからです。この基準となる標本は「模式標本(タイプ標本)」と呼ばれ、永久に保存されなければなりません。「日本動物誌」に新種として掲載された動物も当然模式標本があるはずで、それはシーボルトが収集した標本であり、現在もライデン博物館に保存されているはずです。これらの模式標本、ぜひ一度は見てみたいものです。

最後に後日談を。シーボルトの追放処分は後に解除され、1859年に再来日しました。ダーウィンが進化論を発表した「種の起源」も同じく1859年の出版でした。

さて、話はまだ続きます。日本産のタヌキをヨーロッパに紹介したのは「日本動物誌」が最初なのですが、それよりも前にタヌキを紹介した人がいたのです。

(続く)


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