Vol. 477(2010/2/21)

[今日の動物探偵!]「まだらの紐」を動物学で読み解くと

シャーロック・ホームズといえばサー・アーサー・コナン・ドイルの小説に登場する世界で最も有名な探偵です。シャーロック・ホームズは科学的・論理的な推理によって事件を解決するという現代的な探偵の最初の人物と言える存在です。
シャーロック・ホームズの解決した事件の中で動物が犯行に使われた殺人事件があります。その小説のタイトルは「まだらの紐」(The Adventure of the Speckled Band)です。
ストーリーは、若い女性がホームズのところに駆け込むところから始まります。彼女は自分の身に危険が迫っているのではないかと思っていて、ホームズに助けを求めてやって来たのです。夜になるとどこからともなく口笛のような音が聞こえてくること、そして2年前に姉が謎の死に方をしたことをホームズに話します。ホームズはその女性の家に乗り込み、見事事件を解決します。
えっと、ここから先はネタバレになってしまいますので、まだ読んでいない方は原作をお読みいただくことをお勧めします。書籍もありますし、青空文庫でも読めます。また、「The Baker Street Bakery」のホームページに翻訳データが掲載されています。

この事件で殺人の道具に使われたのはヘビです。女性の義父がインド産と思われるヘビを飼いならして、隣室の女性の姉の部屋に送り込み、ヘビがかんでヘビ毒で死ぬ、という方法で殺人が実行されます。なるほど面白いトリックになっています。
ですが、よくよく考えるとこのトリックには疑問があるのです。


そもそもヘビの毒とはどういうものでしょうか。ちょうど手元に「猛毒動物最恐50」(サイエンス・アイ新書、ソフトバンククリエイティブ)がありますので、それに沿って解説しましょう。
ヘビ毒として多いのは「神経毒」と「出血毒」です。神経毒は神経の機能を遮断するもので、脳から体各部への指令を伝わらなくしてしまいます。つまり、心臓や呼吸が停止したりするのです。出血毒は血液、血管、その他の細胞を破壊するものです。皮下出血や麻痺が起こります。他にも血液が凝固しなくなる「溶血毒」などもあります。
ヘビにかまれた時の死亡率、あるいは死に至るまでの時間は、ヘビの種類だけではなくかまれた箇所や治療によってさまざまです。毒が強くても毒の量が少ないヘビならば死亡率は低くなります。胸近くをかまれると(心臓に近いので)致命的になりやすくなります。応急処置をすれば死亡を避けることができるかもしれません。このように条件でいろいろな結果になるので、ヘビ毒についてあれこれ推理するのは難しそうです。
「まだらの紐」では、女性の姉は数時間ほどで死亡(正確な記述はない)、義父はホームズによれば「10秒もしないうちに死んだ」とのこと。10秒以内というのはさすがに速すぎるような気もしますが、かんだ箇所によってはありえないことでもないかもしれません。

ではヘビの正体は何でしょう。人間を即死させるほどの毒はかなり強烈なもので、「猛毒動物最恐50」に掲載されるに十分な毒を持っているはずです。ヘビの外見は「褐色の斑点でまだらになった黄色い紐」と描写されています。同書を調べてみると、それに近い外見のヘビがいました。しかもインド産です。その名は「ラッセルクサリヘビ」(学名Daboia russelii)です。「ひし形の頭」という描写はクサリヘビ科の特徴です。同書では総合11位、ヘビ限定でも2位(トップは総合10位のインランドタイパン)という強力な毒の持ち主です。ただ、普通は死ぬまでに数日はかかるようで、「まだらの紐」の場合は死ぬのが早すぎるようです。かみどころが悪かったということなのかもしれませんが。そういう疑問点を除いてもラッセルクサリヘビがこの事件のヘビの正体であると考えてもいいかもしれません。
ちなみに原書では、ホームズはこのヘビのことを「swamp adder」と呼んでいますが、これに該当する種類はいないようです。「Proatheris superciliaris」(和名無し)というヘビが「swamp viper」とも呼ばれるので、これがそれらしいように思われますが、このヘビは東アフリカのみに生息しています。

ヘビの正体がわかった!トリックは完璧だ!と喜びたくなるところですが、しかし、残念ながらもっと別の重要な疑問点が残っているのです。
まず、ヘビをなつかせられるか、ということです。これはおそらくインドのヘビ使いがヒントになっていると思われますが、実際にはヘビは人間の言うことを聞くようにできるような動物ではありません。
そして、最も肝心なのは「ヘビには耳がない」ということです。インドのヘビ使いは笛を吹いてヘビを操っているように見えますが、あれは実際には笛の動きにヘビが反応しているだけのことなのです。ですので、口笛でヘビを操るなんてことは不可能なのです。

作品中ではミルクについての記述もあります。ホームズはミルクがヘビの食事だと推理したのですが…。実際は、すべてのヘビは完全な動物食です。しかも生きている動物しか食べません。ですからミルクは飲みません。
ヘビを飼育するなら、エサにするためのマウス(またはヘビの体格に見合う大きさの動物)を定期的に調達(購入)する必要があります。またはマウスなどをエサ用として飼育しておかなければなりません。いずれにせよ家の中のどこかにマウスか何かの在庫があっていいはずです。しかし、ホームズはそれを気にしている様子はありません。
また、ヘビは狭い隙間からでも脱出できるので、隙間の狭い頑丈な飼育カゴが必要です。現代なら魚を飼うためのガラス容器が最もよく使われているでしょう。作品中では金庫がその役目を持っていたのかもしれませんが、猛毒のヘビをカゴや金庫から出して調教しようというのは自殺行為に等しいことです。
いったいどうやってヘビを飼育していたのかとても不思議です。


以上のことから、「まだらの紐」は現実には成り立たない事件だということがわかります。コナン・ドイル本人はこの作品を気に入っていたようですが、科学的に成立しないことがわかってしまっては推理物としての評価は下がってしまいます。まあ、これはフィクションですのであれこれ言ってもしょうがないですし、それとは別に「シャーロック・ホームズもの」という歴史的な看板の価値が下がってしまうものでもないでしょう。
ホームズのマニアならば、こういった生物学的に誤った状況を折り込んで、ストーリーが成立するような理屈を考えるかもしれません。それはそれで面白そうですが、マニアの方々にお任せすることにしましょう。


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