Vol. 527(2011/8/28)

[今日の勉強]日本クマネットワーク「人身事故情報のとりまとめに関する報告書」を読む

2011年3月、日本クマネットワークが「人身事故情報のとりまとめに関する報告書」(PDF)を公開しました。紹介が遅くなってしまいましたが、非常に興味深い内容であるので多くの人に読んでもらいたいと思います。


「日本クマネットワーク」は大学、研究所などの研究者、自然保護団体、行政関係者などが参加している団体です。単なる研究者団体ではなく、人間とクマが共生できるようになることを目的に、調査や情報交換を行っています。

「人身事故情報のとりまとめに関する報告書」は日本各地のクマによる人身事故の詳細を集計し、それを分析したものです。
内容は、最初に全体の概要があり、各地方の詳細が続きます。北海道、東北、関東、甲信、北陸、東海、近畿、中国、四国の各地方について、それぞれの担当者が執筆しています。
また、最後には「クマ類人身事故調査マニュアル」が載せられています。

この10年、クマが人間を襲う事故が多発していることはマスコミでも報道されており多くの人が知っていることでしょう。では、事故を防ぐにはどうすればいいのでしょうか? クマをばんばん撃ち殺せば問題解決でしょうか? ドングリをばらまけばハッピーエンドなのでしょうか?
その前にすべきこと、それは事故の詳細な分析です。事故が発生しやすい時間帯は? 事故が発生しやすい場所はあるのか? クマに出会った時に何をすべきか? クマよけグッズの効果はあるのか?などなど。個別の事故を詳しく調べてこそ教訓が得られるのです。「クマは凶暴」とか「クマがかわいそう」というような観念だけでは何も得られません。

この報告書では全国の事例、各地方毎の事例を統計的に分析しています。何月に発生が多いか、事故の多い時間帯、事故が発生した環境、クマは単独か親子か、被害者の性別・年齢、負傷の程度と部位、などなど。こういった数字を見ていくと事故が発生しやすい状況、事故がもたらす被害の傾向がわかってきます。これによって、「注意しなければならない状況」を事前に知ることができるのです。
また、各地方の報告書では、代表的な個別の人身事故の事例を取り上げて詳しく説明しています。これを読むと、「ある日森の中クマさんに出会った」という事例ばかりではなく、さまざまな状況で事故が発生していることがわかります。道路で襲われたり、河川敷で襲われたり、屋内で、観光地で襲われる事例もあります。状況が多用であるため、対処の方法もさまざまであり、「唯一絶対の解決法」というものはありえません。
どんぐりをばらまけばすべて解決、などという単純な話にはならないのです。

各地方の報告を読む時には、それぞれの地方の事情というものがあることを読み取るべきでしょう。例えば、北海道はヒグマが生息しています。ヒグマは本州以南に生息するツキノワグマに比べて体格が大きく、そのため力も強く、事故が発生した時の人間の死亡率も高くなってしまいます。
四国は、全体での生息数が数十頭以下と推測され、絶滅のおそれが非常に強い状況です。人身被害も近年はありませんが、それでも地元の関係者が対応ができるよう準備していることが報告されています。
本州でも個体数がかなり多い東北地方と絶滅のおそれがある中国地方では状況は異なってきます。
このように各地の事情に応じて対策を立てねばならないのがクマ対策の難しさと言えます。

クマによる人身事故といえば、最近では2009年9月に乗鞍岳の畳平バスターミナルで発生した事件が有名です。観光地にクマが現れ、10人が負傷した大事件でした。この事件に恐怖した方は少なくないでしょうが、クマによる被害者数は普通は最大でも数人程度であり、10人にもなるのはかなり特殊な事例です。
報告書によると、この事件の詳細については乗鞍クマ人身事故調査プロジェクトチームによる「乗鞍岳で発生したツキノワグマによる人身事故の調査報告書」というものがあるそうですが、残念ながらネット上には見あたりません。今の時代、このような文書はネットで公開することが望ましいと思います。印刷して配布するよりもネットの方がずっと低コストでできるのですし。

報告書の末尾の「クマ類人身事故調査マニュアル」もよくできたものであると評価すべきものです。
このマニュアルでは実際の調査用紙も掲載し、具体的な調査の方法、記入方法まで説明されています。これは一般の人が使うためのものではなく、現場の行政関係者や研究者のためのものです。ですが内容がとても具体的であること、過不足なく公開されていることから他の動物事故でも応用できるものになっています。あるいは他の事故・災害でも参考にできるかもしれません。
調査方法と調査結果のまとめ方を全国的に統一することはとても意味があります。それぞれの事例を統一フォーマットで比較検討できるからです。また集計もやりやすくなるでしょう。これによって人身事故の集計・分析がやりやすくなり、対策の検討にも活用できるはずです。


この報告書は200ページ近くもある大作で、それでも人身事故全体から見れば「ダイジェスト版」であるのですが、人間とクマ、あるいは人間と野生動物の関係を考える上ではぜひ目を通すべきものです。これを読めば、事故の多様性、そして対策の難しさもわかるでしょう。しかし、対策の方針も見えてくるはずです。クマ対策を考える上では必読の文書と言えます。
そして、もうひとつ強調しておきたいのは、情報の収集・分析の大切さです。個々の事件を見るだけではその本質は見えてきません。多くの事例を収集し、分析することではじめてわかってくることも多いのです。これは地味で時間のかかる作業ですが、これを行わないと本当に大切なことは見えてこないのです。


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