Vol. 562(2013/4/28)

[今日の本]フジツボ 魅惑の足まねき

2010年のこと。当時、NHKテレビで「熱中時間」という番組がありました。この番組は一般の人の特殊な趣味を紹介するものでした。私はその番組を見たことがなかったのですが、その時はたまたま見たのでした。登場したのはフジツボが好きだという女性。なぜフジツボだろう?という疑問はあったのですが、確かにその女性のフジツボ知識はタダモノではありません。しかもその女性はフジツボの本まで出したというではありませんか。番組ではその本の中身がちらりと映りました。それを見た瞬間、私は理解しました。この人はアマチュアではない。ちゃんと専門的に学んだ人だ、と。

その人が倉谷うらら、そして番組に映ったその本が今回紹介する「フジツボ 魅惑の足まねき」です。
ちらりと映ったのはこの本の冒頭のフジツボ図鑑のページでした。この図鑑ページでは31種が紹介されているだけですが、そのイラストの正確さ、解説の整理の仕方は普通のアマチュアにできるものではありません。私は元編集者ですから、こういうことを瞬間的に判断する眼力はあるのです。
調べてみると、経歴は「ウェールズ大学バンガー校海洋科学学部海洋生物学科卒業、同大学博士課程中退。東京大学三崎臨海実験所での実験補佐、日本動物学会の職員を経て」とあり、私の直感は正しいことが証明できました。ですが、現在の肩書きは…「海洋生物研究家」? どうやら大学や研究所に所属しているのではないようです。

さて、今回紹介する「フジツボ 魅惑の足まねき」は2009年の刊行です。岩波科学ライブラリーのシリーズの1冊で、124ページの薄い本です。中高校生でも楽に読める入門書的な位置付けということでしょう。
内容は、フジツボの研究史、生態、成長など一通りの話題を取り上げています。
歴史なんて面白くもなさそうですが、フジツボの場合はそうでもありません。フジツボはその外見のため長い間、貝の仲間だとされてきました。しかし、どうもそうではないということに気がついた研究者がいたのです。フジツボは実際は甲殻類に分類されます。つまり、エビやカニの仲間なのです。あの姿形のどこがエビやカニなのだ?!と突っ込みたくなる気持ちはわかりますが、それもこの本を読めば理由がわかります。フジツボの分類上の位置付けがわかったのは1830年、つまりまだ200年も経っていないのです。
さらにフジツボ史で面白いのは、進化論で有名なダーウィンが非常に熱心に研究したことです。ダーウィンは有名なビーグル号の世界一周航海(1831〜1836年)の後、進化論の基本的な考えをまとめました。ところがある程度まで進めたところで、1846年からフジツボの研究を開始、進化論は棚上げされてしまいます。この研究は1855年まで続き、その後再び進化論に戻り、1859年にあの名著「種の起源」が出版されました。
なぜダーウィンがそこまでフジツボに入れ込んだのかは理解しがたいものがありますが、本書ではフジツボと進化論についての密接な関係についても説明されています。それはさておいてもフジツボを最初に網羅的に研究したのはまぎれもなくダーウィンであり、その功績はフジツボ史上に燦然と輝いているのです。

本書ではフジツボの生物学的な話の他にも、博物図譜や切手、料理などなどいろいろなフジツボの活躍も紹介しています。日露戦争で日本海軍がロシア・バルチック艦隊を撃破したのもフジツボのおかげなのだそうです。
これだけフジツボまみれになると、本物のフジツボを見に行きたいものです。本書巻末では観察方法まで紹介しているという親切内容です。

著者の倉谷さんは専門家でありながら平易な読みやすい文章を書ける方です。この能力は誰にでもあるというものではなく、とても貴重な才能です。倉谷さんは2011年6月から2012年5月までの1年間、朝日新聞デジタル版でもフジツボや海洋生物についての連載をしていましたがこれもまた面白いものでした。こんな優れた人材が大学や研究所に所属していないというのは非常に残念なことです。


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