Vol. 37(2000/3/12)

[今日の本]動物裁判

動物裁判
[DATA]
著:池上俊一(いけがみ・しゅんいち)
発行:講談社(講談社現代新書1019)
価格:583円
初版発行日:1990年9月20日
ISBN4-06-149019-2

[SUMMARY]被告となった動物たち

第一部「動物裁判とはなにか」
12〜18世紀にかけての中世ヨーロッパで行われていた、動物を被告とする裁判について、史料をもとに各種の事例を紹介していく。
第二部「動物裁判の風景——ヨーロッパ中世の自然と文化」
動物裁判の歴史的背景について、森林開拓、技術的進歩、キリスト教の布教、法律などの観点から分析する。

[COMMENT]中世ヨーロッパの動物観とは?

このところ、写真撮影のためにあちらこちらに行くことが多いのですが、時間があればそこにある古本屋にも行くようにしています。特に捜し物があるわけでもないのですが、時々面白そうな本があったりするので古本屋巡りは欠かせません。動物関係について言えば、古本屋にはそもそもそのような本は少ないですし、あっても内容が古すぎてわざわざ読むほどではない場合がほとんどです。今回紹介する本は、珍しくも買う気になった古本なのです。発見したのは本当に偶然、ふと目を向けるとそこに「動物裁判」があったのです。発行はなんと10年前。今日までに新しい展開があったかもしれませんが、それでも読む価値あり、と私は思ったのでした。

「動物裁判」は12〜18世紀のヨーロッパで行われていた、動物を裁く裁判です。と言っても、現代の私たちには一体どういうものだったのか想像もつかないでしょう。一例として、本書の冒頭に紹介されている15世紀の事例を簡単に説明します。
——1456年の暮れ、フランス、ブルゴーニュ地方のある村で、5才の少年が家畜のブタに食い殺されるという事件が起きた。ブタは直ちに逮捕された。翌年1月、この事件についての裁判が開始された。被告はブタではなく、その所有者であったが、刑罰の対象は犯人のブタであった。判決は「犯人のブタは裁判所内にある木に後ろ足でつるされること(その結果、死ぬことになる)」となり、その通りに刑は執行された。——
現代的に見れば、動物が裁かれるということは非常に滑稽なことです。現代の法では、法律は人格を持つ人間だけに適応されるものであり、動物がその対象になることはありません。動物が何か問題を起こした場合は、その管理責任者が裁かれることになるわけです。人間ではない企業や団体についてはわざわざ「法人」という概念を作って人格を与えていますが、動物には人格は与えられていません。法律上は動物は単なる「物」でしかないのです。奄美大島で、アマミノクロウサギなどの野生動物たちが原告となった裁判が起こされたりしましたが、法律を厳格にあてはめると、そんなことは受け入れられないのが現代の法なのです。

動物裁判に話を戻しますと、当時の資料が極端に少ないため、わかっている事例は数百といったところのようですが、今ではもっと資料が発掘されていると思われます。動物裁判は特殊な事例ではなく、中世ヨーロッパでは普遍的なものだったことがうかがえます。
動物裁判の例として代表的なのが、上記のような「人間を殺した動物を裁く」というタイプです。被告となった動物は、ブタを筆頭に、ウシ、イヌ、ウマ、ネコ、ロバ…さらには植物までも被告となった例があります。ブタが人間を殺すことがあるの?という疑問があると思いますが、当時のブタは「黒ブタ」というまだ野性的な性質を残した種類だったのです。本書の図版を見ると、この黒ブタには牙が生えていることがわかります。現代のブタは18世紀になって登場したまだ新しい種類なのです。
動物裁判のもう1つの代表例が、「動物を破門する」というものです。先ほどの「殺人」は世俗裁判所で裁かれるものでしたが、こちらの「破門」は教会裁判所で裁かれました。こちらはどういう裁判であったかというと、
——ネズミや昆虫などによって農作物が荒らされる。農民たちは裁判所に訴える。裁判ではまず、動物たちに退去命令が出される。それが効果がなかったときは、聖水が散布され、さらに呪いの言葉が発せられ、それでも効果がない場合に最終的に「破門宣告」がなされる——
というものでした。
現代科学的に考えると、そんなことをしても効果がないだろうと思われるのですが、「破門」の効果は非常によかったようです。著者は、被害は永久に続くものではなくいつかは終わるものだからそれも当然、との考えですが、まあ実際はそういうものだったのでしょう。

「殺人」にせよ「破門」にせよ、これらの裁判は人間に対するものとまったく同様の手続きで行われていました。被告には当然、弁護士がつきます。そして、弁護士は被告をちゃんと弁護していました。つまり、動物裁判は遊び半分で行われていたのではなく、非常に大真面目に行われていた、正規の裁判だったのです。

現代ではこのような動物裁判はありえないことでしょう。だからと言って、「動物を裁くなんて、昔の人は馬鹿だなあ」で済ませていてはその本質は見えてきません。なぜ、動物裁判は12世紀以前には存在せず、18世紀以降は消滅したのか? 日本ではなぜ動物裁判が無かったのか? こういったことを追求することで、それぞれの文明と歴史の中での動物観が見えてくるでしょう。
本書の著者は動物裁判の背景として、開拓、技術進歩、宗教などの点から考察をしています。詳細は本書を読んでいただくとして、最も重要なのは「12世紀以降、未開だった森林のおおがかりな開拓が開始された」ということです。それまで、ヨーロッパの大部分を覆っていた森林は魑魅魍魎の跋扈する場所で、人間の支配、人間の法の及ぶ範囲ではありませんでした。つまり自然界は人間がコントロールできない領域であったために、12世紀以前には動物裁判というものはあり得なかったのです。(家畜の数が増えたのも開拓が本格化して以降とみられる)
ところが12世紀以降の森林開拓により、森林も人間が支配できる空間になったのです。そうなると、動物に対しても人間の法を適応しようという流れが出てくるのも当然かもしれません。そして、そのような考え方は近現代の法が確立する18世紀まで延々と生き延びてきたのです。

一方、日本では自然と共生するような自然観が一般であったため、自然を人間の法でしばるような考え方は現れなかったと思われます。人間中心の考え方が登場したのは江戸時代の儒教が最初で、明治維新前後には西欧的な考え方がどっと輸入されてきたのですが、そのころには近現代法の骨格もできてて、ヨーロッパでの動物裁判も終結していたので、日本では動物裁判はありえなかったというわけです。

以上、本書での論を簡単に説明してみました。
私は動物そのものに関心があるのですが、「動物観」というものにも興味があります。文明、あるいは国、地方によって動物に対する考え方はさまざまです。例えば、ある地域では特定の動物が崇拝されていたりします。日本ではお稲荷様(キツネ)や庚申様(サル)がそうですよね。逆に嫌われている動物も世界各地にいろいろ存在します。「動物観」は慣習的なものもありますが、このように宗教とかかわる部分も少なくありません。その意味でも本書の内容は興味あるものでした。
「動物観」で、今私が一番不思議に思っているのは、「なぜ日本では自然保護運動が盛り上がらないのか」ということです。欧米では自然保護運動はかなり以前から存在し、グリーンピースのような政治活動も社会的に認知されています。一方、日本人は昔から草花や昆虫あるいは「花鳥風月」といった自然と親しんでいる文化であると言われているにもかかわらず、自然保護運動は非常に低調で、今も無駄な開発事業が繰り返されています。自然保護の大切さはみんなわかっているはずなのですが、それが行動に結びついていないという不思議な現状なのです。これも明治維新以降、欧米的な「自然は人間に征服されるもの」という自然観が無批判に受け入れられたせいなのでしょうか。その欧米では自然保護は十分に関心を持たれている、という逆説的な情況です。この差が何に起因するのか、なぜ日本では駄目なのか。私が観察しなければならないのは動物だけではなく、人間自身でもあるのでしょう。


[いきもの通信 HOME]