Vol. 100(2001/8/19)

[OPINION]「いきもの主義」という考え方

この「いきもの通信」も2年以上経過し、ようやく100回目となりました。今回と次回は100回記念ということでOPINIONを2回連続で書くことにします。


「いきもの通信」を通して読んでいただくと、私の動物に対する考え方、動物観というものがなんとなく感じられかもしれません。今回はこのことについて書きましょう。

私の動物に対する考え方、これは簡単に表現すると「いきもの主義」と言えるでしょうか。わかりやすく説明するなら「あらゆる生物にとって最善のことを考えていく」ということです。最善のこと、それはまずなによりも生物が絶滅しないようにすることです。そして、生物が絶滅しないようにするには、生息環境全体を維持しなければなりません。つまり、自然環境の保護が必要なのです。
「自然環境の保護」という考え方は現在では一般的なものになっており、これに反対する人は少ないでしょう。ただ、なぜ「自然環境の保護」の必要があるのか、その根拠を理解しているかというとどうもそうでもないようです。ここでは詳しくふれませんが、「自然環境の保護」は人間にとっても利益があるから必要なのです。「いきもの主義」の場合はさらに考え方を広げて「生物全体のために」自然環境の保護が必要だと考えます。
「自然環境の保護」はしばしば「人間による開発」と利害が衝突するものです。「いきもの主義」の立場では、そこに生息する生物(稀少生物でも、そうでなくても)のためにも自然環境は手をつけずに現状維持するのが正しいことになります。そう考えると、諌早湾干拓や長良川河口堰といった問題についての対応も自ずと導き出されます。これら干拓や河口堰は、そこに存在する自然環境の過度の改変つまり自然環境の破壊に他なりません。このような環境破壊行為には「反対」の立場をとるのは私には当然の結論です。諌早湾干拓、長良川河口堰では賛否両論の世論があり、どちらをとるべきか迷われた方も多いでしょう。いろいろな論がマスコミで登場しましたが、「いきもの主義」の考え方をとる私は非常に明解に「反対」の立場を持っていました。
この考え方には「生物を優先するということは、人間はどうなってもいいのか?」という疑問を持たれるかもしれません。これに対しては、「生物を優先することは、人間とっても有益である」と答えましょう。生物の生存を危うくするような環境が、果たして人間にとって快適な環境なのでしょうか? 自然環境の保護は、めぐり巡って人間にとっても快適な環境を提供することでしょう。「いきもの主義」は生物全体を優先する考え方ですが、これは人間社会を否定する考え方ではありませんし、「生物」には人間も含まれます。ただ、最近(特にこの100年)人間は自然環境を大幅に侵略してきました。これからは人間による自然環境の改変にはかなり慎重になるべきですし、個人的には自然環境の方を優先するべきだと考えています。
特に日本国内に限って言えば、これから人口減少期に入る時代に新たな大型のダムや埋め立てなどの必要性がどれほどあるのでしょうか。


「いきもの主義」の考え方では、生物を保護することも重要なことです。ただしこれは、殺処分を一切認めない、動物実験を一切認めない、というような動物などの生命を絶対視する極端な「生命絶対主義」ではありません。ブラックバスやアライグマ、マングースのような外来種に対しては殺処分もやむを得ないと考えます。もちろん、一般的には殺処分はできるだけ避けたい方法です。そうなるように努力する必要もあります。しかし、緊急を要する場合など殺処分も仕方ない場面もあるのです。
「生物保護」と「殺処分を認める」ということは矛盾するように見えるかもしれません。しかし、外来種の問題は放置しておくと自然生態系のバランスがくずれてしまうおそれがあり、そうなると在来の生物が減少したり、絶滅したりすることもあるのです。外来種を保護した結果、在来種の保護が達成できなくなるのでは「生物保護」になりません。この場合は在来種を優先すべきで、外来種のすみやかな排除が必要となることも認めなければならないのです。


ここまで見てきたように「いきもの主義」は人間中心の世界観ではなく、生物中心の世界観です。ここでの「生物」には人間も含まれます。「人間」対「自然」ではなく、「人間」は「自然」の一要素なのです。
「いきもの主義」は「生物中心の世界観」という点で従来の「環境保護派」とは異なる立場にあるといえます。従来の「環境保護派」の考え方は、その思想の根拠がわかりにくく、また扱う環境問題の幅が広範すぎて思想の核が散漫なように私には思えます。「いきもの主義」は生物に焦点を絞った考え方なのです。
「いきもの主義」はイデオロギー的に右か左かと問われると、左翼的あるいはリベラル的に思われるかもしれません。しかし、イデオロギーは右も左も人間中心の世界観であり、「いきもの主義」の考え方とは基軸がまったく異なっています。よく考えてみると、共産主義・社会主義は極めて人間中心の思想ですし、自由主義、民族主義その他多数の思想も人間中心世界観という点では大差ないと私には思えるのです。
ただ、「いきもの主義」の考え方は特殊すぎて、政治問題、経済問題など身近な問題への応用が難しいという面もあります。また、人は人間社会で生活しているため、ほとんどの人は生物中心の考え方にはなじめないだろうと思われます。「いきもの主義」は私だけが信じている哲学といってもいいでしょうし、それを他人に押しつけることはできません。
では、「いきもの主義」に意味がないかというとそんなことはないと思います。私が「いきもの主義」を主張することで、多くの人に新鮮な視点を提示することができるからです。生物の存在を気づかせ、人間の行動が生物や自然環境にどういう影響を与えるのかを示す——そういう視点です。「いきもの主義」は環境問題を考えるにあたってのセカンド・オピニオンとしての役割を果たせると思うのです。


そしてもうひとつ。
世界には生物が満ちあふれています。しかし生物はあまりにも無視されている存在です。その代弁者としての役割を少しでも担えたら、という想いも私にはあるのです。


[いきもの通信 HOME]