最終回 マルチメディア図鑑、10年後の総括
マルチメディア図鑑シリーズは成功だったのか?
「マルチメディア昆虫図鑑」はとてもよく売れ、その後、改訂版も出しました。私がアスキーを辞める99年までには改訂版まで含めて3万部は売っていたと思います。これはCD-ROM書籍としては非常に良い数字でした。ということは、逆から見るとその他の製品はそれほどでもなかったということでもあります。「昆虫」の他に売上が良かったのは「哺乳類」「魚類」「植物」という一般的なありきたりの図鑑タイトルだったのです。それ以外は売れ行きはぱっとしなかったというのが実情でした。
これら「マルチメディア図鑑シリーズ」はタイトルを一通りそろえられたという点では成功したといえますが、成功とは言えない面もあるのも事実です。
まず、電子出版の市場が拡大しなかったことが誤算でした。これは今現在も「電子ブック」がまったく普及していないことからもわかります。「パソコンで本を読む」という習慣が広まっていれば、マルチメディア図鑑シリーズももっと売れたことでしょう。
また、当時はWindows3.1やWindows95の時代で、家庭へのパソコン普及率がまだ低かったということもあります。パソコンはマニア向けという印象が強かった時代でした。一方、インターネットが急速に普及し、「情報はタダである」という風潮が定着してしまったこともマイナスに影響したかもしれません。
もうひとつ残念だったのは後に続く会社がなかったということでした。私たち編集部では、他社(特に大手出版社)も同様の製品を投入してくるのではないか、というあせりを常に持っていました。しかし、ようやく対等に勝負できる製品が学研から出たのは99年になってからでした。
なぜ対抗馬が現れなかったのか。その理由は今ならよくわかります。まず、コンピュータ・ソフトウェア系の会社は、図鑑を作るという出版・編集のノウハウを持っていませんでした。一方、出版社はパソコン・ソフトウェアを作るというノウハウがありませんでしたし、異分野へ挑戦する意欲もありませんでした(リスクを負う気がなかった)。結局、アスキーだけが一人で走りつづけていたわけなのです。そして、アスキーの「マルチメディア図鑑シリーズ」も店頭から消えていきました。
当時としては成功でも、「マルチメディア図鑑シリーズ」が一般市場からほぼ消え去った現状から見ると結局失敗だったともいえるわけです。宮本拓海、アスキーを離れる
「マルチメディア図鑑シリーズ」の刊行が続いていた頃、アスキーも企業としての挫折の時期を迎えていました。97年秋といえば、北海道拓殖銀行、山一証券が相次いで経営破綻し、日本経済を暗雲がおおったことで記憶されている方も多いでしょう。アスキーも同年末にCSKとセガが資本参加するという大変動が起こったのでした。この資本参加によってアスキーは経営的に一息つけるはずでした。ところが明らかになったのはずさんな経営内容だったのです。社内は一気にリストラ・ムードのただよう暗い空気になっていきました。
この影響は私の部署にも及んできました。マルチメディア図鑑シリーズは一通りのタイトルがそろいつつありましたが、ほとんどは売れ行き不振という状態でした。そして、社内的には「確実に売れるものでなければ作らない」などというふざけた論理がまかり通るような状況になっていました。前もって売れることがわかる本なんてそうそうあるものではありません。また、売れない本でもていねいに作り込めばそれなりに評価されるものなのです。そういう正論さえ通らない八方ふさがりの状態だったのです。
これでは新しいことができない、と私は考えました。もっと動物にかかわっていたいのですが、当時のアスキーではそれも許されないような状況でした。そして、私がした決断、それはアスキーを離れることでした。何か勝算があったわけではありません。ただ、アスキーという会社から魅力が消えてしまっていたのは事実でした。99年10月、私はアスキーを去りました。アスキーはその後もCSKによって規模縮小・リストラ路線が続けられ、どんどん萎縮していきました。そして2002年春、ついにCSKからも見放され、投資会社に売却されました。この前後だったと思いますが、一般書籍部門はアスコム(旧アスキー・コミニュケーションズ)に分社されました。また、「マルチメディア図鑑シリーズ」は関連会社アストロアーツに編集部ごと移管されることになりました。
2004年、アスキーは角川グループ傘下に入り現在に至ります。
「マルチメディア図鑑シリーズ」は現在もアストロアーツから若干体裁を変えて発売されています。私の退社後、またさらに改訂されたようですが、基本的な内容は最初のものとそれほど変わっていないはずです。そもそも、図鑑という大プロジェクトを実行するにはアストロアーツという会社では規模が小さすぎます。現在の編集部ではまったく新しい製品を開発することはまず不可能でしょう。「マルチメディア図鑑シリーズ」は、本当ならアスキー本体が持っているべき「財産」だったと私は思っています。
10年後の総括
「マルチメディア図鑑」は成功だったのでしょうか。失敗だったのでしょうか。10年後の今、総括するならば
「商品としては成功したが、産業としては失敗した」
と私は言い切ります。
当時、私はCD-ROM図鑑のようなパソコン出版が急速に普及すると予想していました。そうなれば、これはひとつの産業のジャンルとして確立した分野になると考えていました。ところが後に続く出版社はほとんどありませんでした。これは出版社がCD-ROMなどの新しいメディアに消極的だったためです。新しいことに手を出さなくても出版業界は安泰、というムードが当時は支配的だったのです。「出版業界に不況は無い」などというでたらめな思いこみもあったのでしょう。結局、「マルチメディア図鑑」はパソコン出版・電子出版を産業として成立させることはできませんでした。私たちのやってきたことが早すぎたのか、人々が新しいものになじめなかったのか、こうなった要因は今もよくわかりません。こうして10年前を振り返ってみると、まるで「プロジェクトX」みたいだと思う方もいるでしょう。私自身もそれに値することをやったと思っています。しかも20代のうちにこういういい仕事ができたのは誇りでもあります。そしてまた、この時の体験が今の私につながっているのです。
この時期は経済的には「失われた10年」などと言われた時代ですが、そんな中でもこういういい仕事ができたのです。単なる幸運だったのか、あるいは成長産業であったパソコン業界の片隅にいたからできたことなのか。
ただ、いずれにせよ「マルチメディア図鑑シリーズ」はもはや過去のもの、私にとってもノスタルジーでしかありません。しかし、動物とのつきあいはこれからも続く大きなテーマなのです。