Vol. 471(2009/11/22)

[今日の勉強]誰でも簡単に生物の名前がわかる機械

DNAバーコードはどこまで実用化できるか

タヌキのフンを分析すると、明らかに動物植物の断片と見られるものがいろいろと出てきます。例えば鳥の羽毛や羽軸が時々出てくることがあります。しかし、それから鳥の種名を割り出すことは不可能です。羽毛といっても小さな羽で、風切羽のような大きなものではないからです。あるいは、小さな骨がフンから出てくることがあります。東京タヌキが食べそうなものというと、ネズミかアズマヒキガエル、もしかしたらアズマモグラも食べているかもしれません。鳥の死体を食べているのかもしれません。骨格標本を片っ端からあたってみればその正体がわかるかもしれませんが、その手間はかなりのものでしょうし、判定が微妙な骨もあるでしょう。
もし、こういった謎の物質を分析する機械があればどんなに便利でしょう。手のひらに乗るほどのハンディな大きさ。その機械に謎の物質の断片をセットすると、たちどころにその動物植物名がディスプレイに表示される…まるでSFに登場する夢のマシンです。

しかし、これは夢の機械ではなく部分的ではありますが現実に稼働しているものなのです。2009年3月23日付け朝日新聞(東京版)の記事によると、実際に機械があり、アメリカではレストランやスーパーの魚を調べて表示と異なる魚が含まれていることが判明したとのことです。
この機械を成立させている技術のことは「DNAバーコード」と呼ばれています。英語では「Barcode of Life」あるいは「DNA Barcoding」と呼ばれます。動物の場合はミトコンドリアのCOI遺伝子(約650塩基対)を調べれば、大半の種の判別ができるそうです。つまりゲノムの全配列を調べて比較するのではなく、種の特徴が出やすいごく一部の遺伝子に注目し、それを比較することで種を割り出しているのです。もちろん、これだけでは完全に判別できない場合もありますので、他の遺伝子も補助的に使うこともあります。
もしゲノムのすべての配列を調べるとなると、それだけで膨大な時間とコストがかかります。そういった研究ももちろん必要ですが、すべての生物種でそれを実行することは不可能です。「種を判別する」という目的のためなら一部分がわかるだけでも十分実用的です。

ただ残念ながら、この機械は現時点ではパーフェクトなものではありません。DNAバーコード情報が集まったのは、鳥、魚、昆虫などを中心とした約5万種だけです(朝日新聞の記事によるので、2009年春時点での数字)。5万というとかなりのレベルに達しているように思えるかもしれませんが、世界のすべての動物種はわかっているだけでも100万以上、未発見・未分類のものも含めるとその何倍もの種数になるのは確実です。中には標本を得ることが非常に難しい動物もいるでしょう。ある程度のDNAバーコード収集は可能ですが、完全性を求めようとすると永遠に終わることはない作業になりそうです。まあ、それでもある程度データを集めれば実用上は問題のないものになることでしょう。
例えば、脊椎動物(哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、硬骨魚類、軟骨魚類、など)は合計約6万種ですので、がんばればほとんどの種をカバーすることはできるでしょうし、それだけでも大きな成果です。問題は昆虫などの小さな生物です。昆虫だけでも100万種いるのは確実ですから…。
朝日新聞の記事によると、5年後までに50万種、というのが目標だそうですが、そこまでいけばおそらく実用的なものになるでしょう。

このように書くと、10年もすれば普通に実用化されそうな技術のように見えますが、そうは簡単に行かない問題にぶつかることになるのではないか、と私は思います。
例えば、COI遺伝子だけでは判別できないことがあるとします。そこで他の遺伝子を比べても差は見つからない。他の遺伝子をくらべても、またまた別の遺伝子を比べても…という例が必ずあることでしょう。
あるいは、見かけはおなじなのに、CO1遺伝子を調べるとばらばらである、つまり別の種類だった、という結論になる動物が出てくるかもしれません。
これは究極的には「種(しゅ、種類のこと)とは何か?」という問題にぶつかります。「種」という言葉は分類学の最も基本的な単位ですが、その定義にはあいまいなものがあります。最も妥当な定義は「種とは、交配し、子孫を残すことができる生物集団である」というものですが、遺伝子レベルで調べていくと、この定義があてはまらない例が続出する可能性もあります。
この問題の究極の回答を得るのは難しいかもしれませんが、どこかで妥協点を見つけながら実用の方法を探っていくことになるでしょう。

DNAバーコードを調べる装置は、ハンディサイズのものを作る研究も始まっているとのことです。もしハンディ機が完成すれば、冒頭のようにタヌキのフンの研究には大きく役立つのは間違いありません。もちろんそれ以外にも、スーパーの店頭に並ぶ魚の切り身の正体を検証するためにも使えますし、簡単には名前のわからない害虫の種類をたちどころに判別することもできます。これは実社会で非常に役に立つものになるでしょう。
では、そのようなハンディ機はいつ登場するのでしょうか。新聞記事などでは実現可能なもののように書いてありますが、それは研究者たちの希望的観測あるいは対外的な宣伝上の戦略でしかないでしょう。
現在の技術では、DNAを抽出することは10分や20分でできるものではありません。また、調べる物質を粉砕したりすりつぶしたりしなければなりませんし、遠心分離器という特殊な装置を使ったりします。
どこにでも持ち運べるハンディ機ならば、現場ですぐ答えが出てくるようにならないと実用性はありません。1つ調べるのに1時間もかかっていたら日が暮れてしまいます。
私の正直な感想では、ハンディ機は10年ではとても実現できないでしょう。しかし、ひょっとしたら何か画期的な方法によって小型化ができてしまうかもしれません。そのようなブレイクスルーが起きることを期待しましょう。
それともうひとつ肝心なことがあります。それは値段です。ハンディ機が完成しても、その価格が100万円もしては私には買えません。大学や企業のプロの研究者なら買えるかもしれませんが、アマチュア研究者にはきついお値段です。せめてその1/10になれば無理してでも買うのですが…。値段の点でもブレイクスルーが起こることを(とても痛切に)願うばかりです。


[いきもの通信 HOME]