Vol. 332(2006/9/3)

[今日の事件]直木賞作家の「子猫殺し」事件

日本経済新聞8月18日付夕刊のコラム「プロムナード」で直木賞作家の坂東眞砂子が書いたエッセー「子猫殺し」が大きな話題になっていることは既にご存知でしょう。一般紙や週刊誌を巻き込んでの動物事件というのは久しぶりです。これほどの事件になってしまったならば私からもコメントをせねばならないでしょう。

まずは問題の文章を読まねばなりませんが、図書館などへ行く時間がなかったものですからネット検索で探してみました。「日経新聞 坂東眞砂子」で検索すればすぐに見つかるでしょう。また、子犬も殺しているのではという疑惑も持たれることになった文章は「日経新聞 坂東眞砂子 天の邪鬼タマ」で探せます。
原文を読まずにあれこれ言うのは批評になりません。皆様もぜひお読みください。


この文章にある「子猫殺し」とは、子猫が生まれるとすぐに崖下に放り投げてしまう、ということです。
最初にはっきりしておかなければならないのは、これは動物虐待であり、動物愛護法違反であるということです。

第四十四条  愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。

この行為が行われたのはフランス領タヒチですので、日本の法律が適用されるわけではありません(フランスの法律でも違法行為だとは思うんですが…)。それでも日本の読者に向けて堂々と犯罪行為を公言しているのだから驚きです。

動物虐待がどれほどの罪なのか、刑法の対称となる犯罪と比較してみましょう。犯罪の重い軽いの比較は難しいのですが、ここでは数字で比べられる罰則の内容で見てみましょう。
「懲役一年以下」にあたる犯罪には例えば次のようなものがあります(すべて刑法)。

・信書開封(他人の手紙を勝手に読むこと)
第百三十三条 正当な理由がないのに、封をしてある信書を開けた者は、一年以下の懲役又は二十万円以下の罰金

・傷害、現場助勢(傷害行為をあおること)
第二百六条 前二条の犯罪(※傷害)が行われるに当たり、現場において勢いを助けた者は、自ら人を傷害しなくても、一年以下の懲役又は十万円以下の罰金若しくは科料

・遺失物等横領(要するにネコババ)
第二百五十四条 遺失物、漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は、一年以下の懲役又は十万円以下の罰金若しくは科料

動物虐待は以前は刑法の器物損壊罪が適用されていました。

・器物損壊等(他人の所有物を壊すこと)
第二百六十一条 前三条に規定するもののほか、他人の物を損壊し、又は傷害した者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料

これに近いものとしては次のものがあります。

・住居侵入等
第百三十条 正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金

動物虐待とはだいたいこれらに相当する犯罪であると考えていいでしょう。
つまり坂東氏の文章は「私は自分の信念でネコババをしています」「私は自分の信念で他人の持ち物を破壊しています」と言っているのと同じ意味ということではないでしょうか。しかも坂東氏は自分の行為が動物虐待であるとわかって書いています。まるで自分の犯罪を自慢しているかのように読めてしまうのです。法律に異議を持つのはかまいません。しかし、堂々と違法行為を行うのはどうでしょうか。


坂東氏は避妊・去勢手術は「飼い主の都合」に過ぎないと主張しています。しかし日本では避妊・去勢手術は過剰な繁殖を抑えるためのベターな方法として定着しているといっていいでしょう。これは長い時間をかけて多くの人が合意してきた解決方法です。
避妊・去勢手術がベストの方法であるとは私は思っていませんし、多くのイヌ・ネコ好きもそう思っていることでしょう。動物の体にメスを入れることにはやはり抵抗を感じるものです。ですが現在はこれに代わる方法もありません。多くの人は若干の違和感あるいは複雑な心境で避妊・去勢手術を受け入れていると思います。それは「飼い主の都合」とか責任回避などと非難されるものではありません。

では、坂東氏は避妊・去勢手術に代わる方法として何を提案しているかというと、コラムのタイトルである「子猫殺し」なのです。これでは歴史を逆戻りです。避妊・去勢手術は「不幸な生命」の誕生を回避するための手段として合意されてきたのに、「子猫殺し」では何十年も前の時代に戻ったかのような提案です。動物愛護活動家にとってはずっこけてしまいそうな時代錯誤の提案でしょう。
現在では、いま生きている生命を奪うのは奨励されていることではありませんし、やむをえず殺処分する場合でも安楽死を選ぶ場合がほとんどでしょう。それを坂東氏は自らの手で崖から放り投げるのですから、動物愛護精神のかけらもないというか、生命を軽視しているというか…。「それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けて」いると坂東氏は書いていますが、それならばせめて安楽死を選んでほしいものです。


私にとって、坂東氏の文章で一番違和感があるのはネコのことを「獣」と表現していることです。
一般に「獣」とは哺乳類のことを指します。その意味ではネコも獣には違いないのですが、より厳密に定義すると「獣」とは「野生の哺乳類」のことです。ネコやイヌのような非野生の動物は「飼育動物」と呼ばれるべきです。
(実際、動物愛護法では「獣」という語は使われておらず「動物」となっている。鳥獣保護法は野生動物(=哺乳類と鳥類)が対象なので「獣」という語を使って問題ない。)
坂東氏の文章では「獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ」とありますので、「獣=野生動物」という認識はあるようです。しかし、ネコは自然の中で生きている動物ではありません。野良猫は野生生活をしているようですが、実際は人家周辺を離れて生活することはありません。つまり、多かれ少なかれ人間に依存して生きているのです。これはイヌの場合も同様です。人間にまったく依存しないノイヌ、ノネコが全然いないわけではありませんが、ほぼすべてのネコ、イヌは人間と共に生きていると考えていいでしょう。これは人間とネコ、イヌとの長い歴史的つきあいの結果です。イヌは人間が狩猟生活をしていた時代からのつきあいですし、ネコは遅くとも古代エジプト文明の頃までには飼育動物になっていました。つまり、イヌ、ネコの歴史は人間の歴史と共にあったということであり、不可分の存在なのです。飼育動物の中でもネコ、イヌは特別な地位にあるということは、動物平等主義者(笑)(注)の私でも認めざるを得ない社会的現実です。
ですから坂東氏のようにネコを野生動物と同一視して扱うことには私は同意できません。どうも坂東氏は野生動物と飼育動物の区別もできないのではないかと思わざるをえません。飼育動物ならば、その生涯を人間が責任を持って預かるというのが現在の動物飼育の基本原則です。それを放棄するような坂東氏の行為は動物愛護家でなくとも受け入れがたいのではないでしょうか。


それにしても不思議なのは、なぜ坂東氏がネコやイヌを飼っているのかということです。坂東氏は「人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている」、「獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ」と書いています。それほど言うのなら動物を飼わなければいいのですが、当の本人は実際にネコだけでなくイヌも飼っています。なんという矛盾した行動なのでしょう。しかも、動物に干渉するのは良くないということ書いているにも関わらず、子猫を自らの手で殺しているのです。これは「動物に干渉する」ということなのではないでしょうか。坂東氏の言説はまったく非論理的で破綻しています。これではまともに議論をすることもできません。

坂東氏がそれほどまでに動物のことを考えているのなら、「動物を飼わない」という選択肢こそ選ぶべきではなかったでしょうか。
私はネコもイヌも飼っていません。その理由は、ネコやイヌ(あるいはその他のペット動物でも)の生命を預かるという責任を背負い切れないと感じているからです(これについての詳細はこちら)。本当に動物のことを考えたならばこういう結論を導き出すこともあるのではないでしょうか(動物を飼うなと言っているわけではないので勘違いなさらないよう)。
私はネコやイヌを飼わないことにしているので、野良猫(半野良を含む)と接する時もエサ無しで向き合うようにしています。エサを与えるというのは飼う・飼われるという飼育関係が成立するということだと思うのです。「飼育をしない」ということは「エサを与えない」ということであり、私は野良猫たちに対してもこの原則を守っているわけです。おかげで野良猫たちには不人気なんですがね(笑)。ほとんど野良猫には近づくことさえできません。ただ、それぞれのネコたちの人間に対する警戒感や距離感覚というものがよくわかるので、これはこれで動物観察として役に立っています。ネコにも個性があって、人間が全然平気なネコもいれば、知らない人には近づきもしないネコもいますし、気分によって近づいてきたりするネコもいたりと様々であることがよくわかります。もしエサを使っていたとしたら、たいていのネコはそれに誘惑されてしまうでしょうからこういったネコの個性というものはわからなかったでしょう。


坂東氏の文章をていねいに読むと、あえて世間を挑発しようという意図ははっきりわかりますし、動物愛護について問題を提起しようとしたのかもしれません。しかし、このように程度の低い非論理的な雑文ではその目的はまったく遂げられていません(坂東氏の文章の組み立ては非常にわかりにくいと思います。これが文学賞受賞者の文章とは思えないほどです)。
本気で論争をしようというのなら、もっと論理的に組み立てられた、説得力のある文章でなければならないでしょう。もしこの論争が続くのならば、そういう文章を期待します。坂東氏の指摘することは小さなことではなく、動物を飼うなら誰もが多かれ少なかれ悩む問題です。ですから論争は大歓迎です。しかし、その前に坂東氏はより多くの人の共感を得られるような論をきちんと構築すべきでしょう。


※動物平等主義者=いろいろな動物について調べたり観察したり研究したりしていくと、どの動物がエライとか、ダメだとかいうのは相対的なものに過ぎないことがわかってくるものです。人間も昆虫も同じ動物であって優劣なんかつけられません。それが動物平等主義。動物の研究においては人間的価値観からの優劣のレッテル張りなど意味のないことなのです。
とはいえ、これは普通の人々には理解しにくいものですので、私はこの考えを押しつけるようなことはしません。
私が動物平等主義者であっても、人間社会の中ではある特定の動物が特別扱いされているのは事実であり、否定できません。その中でもイヌとネコは歴史的にも他の動物とは違う位置を占めている、と私は感じています。


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