2008年7月11日、天皇陛下が「皇居のタヌキ」の論文を発表、というニュースが全国各紙でいっせいに取り上げられました。論文のタイトルは「皇居におけるタヌキの食性とその季節変動」です。陛下が魚類の研究者であることは既に有名ですが、今回は哺乳類のタヌキについての論文であること、また、東京のど真ん中の皇居にタヌキが生息しているという意外性などから注目を集めるものになりました。
しかし、その論文を実際に読んだ人は極めて少数でしょうし、読んだとしてもその内容についてどこまで理解されているか心配です。そこで、この論文をわかりやすく解説することが必要だと思います。そして、その解説をするのは、同じく東京のタヌキを研究している私自身がやるのが最適ではないでしょうか?
※質問が多そうなので先に書いておきますが、論文「皇居におけるタヌキの食性とその季節変動」の入手方法は国立科学博物館にお問い合わせください。宮本が論文のコピーを配布することはありません。
※2009年10月追記
同論文は国立情報学研究所のページからダウンロードできます。「国立情報学研究所 CiNii 本文PDF」をクリックするとPDFファイルがダウンロードされます。
皇居のタヌキの研究は、今回突然行われたのではありません。最初に、ここに到るまでの経緯を、文献を紹介しながら説明しましょう。
普通、こういった文献の紹介は末尾に来るものですが、文献自体が歴史を物語っている面もありますので最初に取り上げます。
1996年から2000年にかけて、国立科学博物館(研究ジャンルによっては全国の研究者も参加)は皇居の吹上御苑の動植物調査を行いました。この調査には、皇居の自然環境に関心を持っておられた陛下の支持もあったとのことです。この調査の結果は国立科学博物館が報告書をまとめましたが、それとは別に、一般向けの書籍も刊行されました。それが次の書籍です。
[文献1]
「皇居・吹上御苑の生き物」
編著:国立科学博物館皇居生物相調査グループ(世界文化社、2001年)
この書籍のp112〜115のコラム「居候たちの素顔」(執筆者:遠藤秀紀・国立科学博物館動物研究部)に、皇居に生息するタヌキとハクビシンのことが書かれています。
これによると、国立科学博物館の調査項目には当初はタヌキとハクビシンは入っていませんでした。調査の終了が近づいた頃にこれらの動物の情報が入り始め、聞き取り調査などを行ったようです。ですからこの書籍の中でもコラム扱いになっているのです。
このコラムには皇居内のタヌキとハクビシンの写真も掲載されていますが、この写真は本の制作作業の最終段階でぎりぎり間にあったものだった、という話を当時、宮本は伝え聞いています。つまり2000年当時はようやくタヌキの存在が確認できたばかりで、詳細な調査はできていなかったようです。
この時の皇居のタヌキ調査について、国立科学博物館の論文があります。
[文献2]
「皇居内に移入されたハクビシンとタヌキについて」
(国立科学博物館専報 Vol.35、遠藤 秀紀、倉持 利明、川嶋 舟、吉行 瑞子、2000年)
(ページの右上の「CiNii PDF」のボタンをクリックすると、PDFファイルがダウンロードされます。)
本文は英語、要約は日本語です。英語は大学生レベルのものでそう難しくはありません。
この論文はまさに2000年当時の状況を記録したものです。目撃情報の収集とフンの簡単な分析を行っています。
その後、2005年に今度は赤坂御用地でのタヌキ調査の論文が発表されました。
[文献3]
「赤坂御用地に生息するタヌキのタメフン場利用と食性について」
(国立科学博物館専報 Vol.39、手塚 牧人、遠藤 秀紀、2005年)
(ページの右上の「CiNii PDF」のボタンをクリックすると、PDFファイルがダウンロードされます。)
これは日本語です。この論文は今回の皇居のタヌキの内容にも近いもので、比較すると面白いでしょう。
[文献4]
「赤坂御用地に移入されたタヌキの病理解剖学的検討」
(国立科学博物館専報 Vol.39、遠藤 秀紀、林田 明子、上塚 浩司、2005年)
(ページの右上の「CiNii PDF」のボタンをクリックすると、PDFファイルがダウンロードされます。)
本文は英語、要約は日本語です。
これは同時期に、赤坂御用地で発見されたタヌキの死体についての論文です。当然、医学用語がたくさん出てくるので、読むのは大変かもしれません。
皇居・赤坂御用地のタヌキは、このように国立科学博物館が主体になって調査が行われてきました。今回の皇居のタヌキの論文もこの流れを受け継いでいるのは明らかで、突然タヌキの調査研究を行った、というようなものではないのです。
一方、東京都23区内のタヌキを調べている宮本やNPO都市動物研究会についても書いておきます。
私が世田谷区で始めてタヌキを目撃したのは1998年でした。私の個人的なタヌキとのつきあいはこの時に始まりました。その時に目撃場所を紹介し、同行したのはプロ・ナチュラリストの佐々木洋氏です。佐々木氏は既に1980年代に23区内のタヌキを目撃しています。2002年にはNPO法人・都市動物研究会が発足しました。
このあたりの歴史は下記の[文献8]に記してありますのでお読みください。
東京都23区内のタヌキを最初に本格的に紹介したのは、私が執筆した次の書籍です。
[文献5]
「動物の見つけ方、教えます! 都会の自然観察入門」
文・イラスト・写真:宮本拓海、監修:佐々木洋(数研出版、2004年)
この書籍は都市動物全般を取り上げていますが、タヌキについても第4章で特に取り上げています。同書では、東京都23区内に生息するタヌキの数を1000頭以上と推測しています。「東京タヌキは1000頭」という数字の根拠はここから始まっているのです。
[文献6]
「東京都23区内でのタヌキ生息数の推定(2006年6月版)」
(宮本拓海、2006年)
2006年、それまでに収集したタヌキ情報から東京都23区内のタヌキの生息数をあらためて推測したのがこの報告書です。ここでは約450頭〜約1800頭と推測しています。実数からの推測ではなく、生息環境からの推測であるため、やや正確さに欠ける点がありますが、タヌキ調査の方法に指針を与えるものになっています。
[文献7]
「東京都23区内のタヌキの生息分布(2007年7月版)」
(NPO法人都市動物研究会、宮本拓海、佐々木洋、木村雅美、2007年)
そして、2007年には生息分布図を完成させました。これは実際の目撃情報を地図にプロットしたものです。
[文献8]
「タヌキたちのびっくり東京生活 都市と野生動物の新しい共存」
著:宮本拓海、しおやてるこ、NPO法人都市動物研究会
(技術評論社、2008年)
2008年、これまでの成果をまとめた書籍が発売されました。同書の発売は、偶然にも「皇居のタヌキ」論文の発表に近い日付でした。
同書では東京都23区内のタヌキについての各種の分析はもちろんのこと、一般的なタヌキについての基礎知識も紹介しており、「タヌキ入門書」としても読める内容です。一般向けに書いてありますので読みやすい本でしょう。
この書籍では皇居や赤坂御用地のタヌキについても言及しており、また、23区内で採集したタヌキのフンの分析についても写真付きで説明しています。「皇居のタヌキ」論文とも関連する部分がありますので、ぜひ読んでいただきたい本です。
今回の「皇居にタヌキいる」という報道には驚かれた方も少なくないでしょう。
しかし、上の文献でおわかりのように、「皇居に野生のタヌキがいること」も「東京都23区内に野生のタヌキがいる」ということも既に知られている事実です。よって、このことについては今回は説明はしません。
「皇居のタヌキ」論文の前に、まずタヌキ調査の方法について説明します。
タヌキの調査方法にはいろいろなものがあります。どれを選ぶかは、目的や現場の状況によって異なってきます。ここでは基本的なものを紹介していきましょう。基本的といっても、「簡単」という意味ではなく、必ずやらなければならない調査と考えるべきものです。
調査の目的は主に、「行動範囲」「生息数」「食べ物」の3つを調べることです。
タヌキの行動範囲は場所や環境によって大きく異なります。どのような条件でどのような行動範囲になるのか調べるのは重要です。そして、行動範囲がわかればある地域内での生息数を推測できます。
また、タヌキは雑食性で多種多様なものを食べます。タヌキの食べ物も場所や環境によって異なるだけでなく、季節によっても変化します。特に、自然環境の少ない都会で何を食べているのかは関心が持たれていることです。
次に具体的な調査方法を簡単に紹介していきます。
まず最初にやらなければならない基本中の基本の調査です。ためフン、獣道(けものみち)、足跡などを探します。これによってタヌキの行動をある程度推測できます。目撃情報にもタヌキの行動のヒントが隠されていますので、聞き取り調査も欠かせません。
フンの中には未消化の食べ物が入っています。それを調べることによって、タヌキが何を食べたのかを知ることができます。
タヌキは特定の場所でフンをする「ためフン」という性質があります。そのため、フンの収集は比較的簡単です。(他の動物の場合、どこでフンをするのか不特定であるため、探すのがかなり大変です。)
タヌキが現れる場所でタヌキを肉眼で観察する方法です。ためフン場や食事場所や獣道で待ち伏せするのが確実でしょう。
タヌキを直接観察できれば非常に多くの情報が得られます。しかし、タヌキは警戒心が強く、人前にはなかなか現れません。人がいると姿を現さないこともあります。しかもタヌキが行動するのは主に夜間なので、暗くてよく見えないという問題もあります。特別な状況では不可能ではありませんが、実際には難しい調査方法です。
人間が直接観察することが難しいならば、自動撮影装置で観察を行います。センサーカメラとは、赤外線探知装置と組み合わせたカメラのことで、前を何かが通過すると、自動的に写真を撮る装置です。タヌキ(他の野生動物も同様)はあまりセンサーカメラを気にしませんので有効な調査方法です。他の動物も写っていることがあるので、地域の生態系を知る参考にもなります。
写真(静止画)よりも動画像の方が良いのではないか、と思われる方がいるでしょうが、残念ながら現時点ではいい機材がありません。録画時間、バッテリー持続時間、照明、入手しやすさ、データ管理・保管方法などなどの点ですべてを満足させるハードウェアは無いのです。
電波発信機をタヌキに装着して、アンテナを使って位置を追っていく調査方法です。タヌキに限らず野生動物の調査ではよく用いられる方法なので、テレビ番組などで見たことがある方もいるでしょう。
この方法はリアルタイムでおおよその場所がわかる利点がありますが、タヌキは夜行性であるため、一晩中それにつきあわねばならないという難点もあります。寒い冬だと凍え死にそうになります。また、タヌキを捕獲して電波発信器を取り付けねばならないので、ちょっと大がかりな調査になってしまいます。
ここで、タヌキのためフンについて、もう少し説明を加えましょう。
タヌキは特定の場所でフンをする性質があり、その堆積したフンのことを「ためフン」、その場所を「ためフン場」と言います。ためフンは主に家族単位で使用するため、多数のフンが常にあることになり、大きさも直径30cmを超えることがあります。
動物のフンの大きさは、一般的には体の大きさに比例します。タヌキのフンの大きさは小型犬やネコと同じ程度です。これらの類似動物はためフンをすることはありません。ですから、ためフンがあればそれはタヌキのものだと断定できるのです。
また、フンのにおいも動物の種類によって異なっていますので、慣れればにおいだけでタヌキだと判別することも可能です。(例えば、ネコのフンはタヌキのものより強烈にくさい。一般に動物食の割合が多いほどフンのにおいはきつくなる。)
特定の場所にフンをするという性質は、調査研究には好都合なことです。もしランダムな場所にフンをするならば、それを探すだけでも大変なことです。
ためフン場を見つけさえすれば、いつでもフンを採集できますから労力も節約できます。ただし、ためフン場は常に固定しているのではありませんので、ためフンの消長を注意して観察しなければなりませんし、新しいためフン場を探す努力も必要です。
では、タヌキのフンを調べると何がわかるのでしょうか。
これは人間や他の動物でも同じですが、フンの中には消化し切れなかったものが入っています。食べ物の中には消化しやすいもの、しにくいものがさまざまありますから、未消化物だけでは食べ物の全体像はわかりません。しかし、食性の傾向を知るには重要な研究材料です。
タヌキは雑食ですので、動物性のものも植物性のものも食べます。特定の食べ物に固執することはなく、状況に応じて食べられるものを食べています。ですから、季節によっても食べるものは変化していきます。例えば、秋ならカキ(柿)の実を食べ、初夏ならビワの実を食べる、といった具合です。
また、タヌキは人里で生ゴミ・残飯を食べることが知られています。また、人間が与えるエサを食べることもあります。タヌキは本来、自然の中にある動植物を食べているはずですが、自然環境の乏しい都会ではこういった人間由来の食べ物にある程度依存しているのではないかと考えられています。
東京都23区といえば日本最大の都会です。そこにいる1000頭ものタヌキたちはいったい何を食べているのでしょうか。乏しい自然環境下でいったいどうやって食べ物を確保しているのでしょうか。人間由来の食べ物をどれほど食べているのでしょうか。今回の論文はその謎に挑戦する研究なのです。
ただ、都会とはいえ皇居の自然は豊かなので、人間由来物が少ないことは事前に十分予想できることではあります。
「フンの研究」と聞くとびっくりする方が少なくないでしょうが、前項にも書いた通り、これはタヌキ調査の中でも基本的なものであり、欠かせないものでもあります。特殊な研究でも奇妙な研究でもありません。
ここで、フンの分析の手順を紹介しましょう。これは、拙著[文献8]では省略してしまって書いていなかったことです(フンを扱うことは一般受けしないだろうと判断したからです)。
また、この手順は私がやっている方法ですので、人によって多少の違いがあるかもしれません。
ためフン場でフンを採取します。イヌのフンを処理する時のように、ポリ袋ごしにフンをつかんで袋に入れてしまいます。においが気になる場合は二重三重にポリ袋に包みます。
フンは普通は新しいものを選びます。新しいフンからは最近の食事内容がわかるからです。また、古いフンは固くなっているので後の水洗い作業が大変になります。
まず、茶こしを準備します。100円ショップで売っているもので十分です。
作業は水を扱える場所でします。フンのにおいがあるので、屋内は避けた方がいいかもしれません。
水洗いのやり方は、フンを割りばしでつかみ、水を流しながら茶こしで溶いていきます。この作業はけっこう時間がかかります。フン3個ほどを水洗いするには1時間ぐらいかかります。フンを溶いていくと、茶こしには内容物が残ってきます。水洗いは、フンのにおいがほぼ無くなるまで続けます。
なお、この作業は採取したその日の内にやらないと、フンがどろどろになってしまい、作業しづらくなります。
(この時点でフンのくさいにおいはほぼ無くなっていますので、室内での作業になります。)
茶こしに残った内容物はぬれているので、そのままでは次の作業ができません。
紙を用意して、その上に内容物を移します(私は、A4のコピー用紙を使用しています)。この時、細いピンなどを使って、ある程度、より分けをした方がいいでしょう。
そして、後は自然乾燥させます。早く乾かそうと思ってドライヤーなどを使うと、内容物が飛び散ってしまいますのでやめましょう。半日もあれば室内でも乾燥するはずです。
ここまで来ればすぐにでも顕微鏡を使いたくなりますが、その前に肉眼での作業をします。大きな内容物ならば、肉眼でも十分に見ることができますので、顕微鏡を使わずにより分ける作業をします。
肉眼で判別できないような小さなものは顕微鏡を使ってより分けていきます。
使用する顕微鏡は「実体顕微鏡」と呼ばれるタイプで、倍率は10〜80倍程度と低倍率です。低倍率といっても、普通のピンセットの先端が巨大に見えてしまうほどです。そのため、非常に細い(薄い)ピンセットやピンを使って作業しなければなりません。
これはかなり疲れる作業です。私は完全なより分け作業を行ったことはありませんが、きちんとやるとなると、フン1個に丸1日は必要となるのではないでしょうか。
また、この作業ではマスクが必需品です。内容物は非常に小さく非常に軽いため、鼻息でも簡単に吹き飛ばされてしまうのです(経験者は語る(笑))。
より分けた内容物の正体を調べる作業です。
当たり前のことですが、フンの中に動物が丸ごと入っていることはめったにありません。「昆虫の脚の一部」とか「昆虫の翅(はね)の一部」といった形で入っています。たったこれだけの物から動物植物の正体を判定しなければならないのです。
その過程は拙著[文献8]で紹介しました。[文献8]では探偵風に正体を突き止めていくというスタイルで紹介しましたが、実際にはわからないものだらけで、正体不明なままのものがほとんどです。「昆虫の脚」とまではわかっても、その昆虫の種類まで判定するのは難しいです。最も良い解決方法は、専門家に協力してもらうことでしょう。
この作業はかなり時間がかかります。ずーっと考えても答えがわからない、ということもあります。慣れてくれば作業時間の短縮も可能でしょうが、そこまで到達するのは大変です。
フンの内容物の正体がわかったら、最後にそれを記録に残します。どういう種類のものがいくつ含まれていたかを表にして整理するのが、この場合は適切な方法でしょう。さらに、論文や報告書にまとめることもすべきです。
研究はきちんと記録に残さなければ意味がありません。証拠を残すことは大事ですし、他の誰かが検証することもできます。
以上のように、フンの分析にはかなり時間がかかるものです。
今回の論文では、毎月約10個のフンを採取したとのことです。毎月これだけの量を処理できたということから、充実したスタッフや研究環境がそろっていることがうかがわれます。私一人で全部やらなければならない立場から見ると、うらやましい環境です。
報道によれば、「陛下は住まいの御所近くにあるためふん場をたびたび訪れて、自らふんを採取。水洗いして未消化物の分析作業を行ったという。」(時事通信社、2008年7月10日)とのことですので、陛下ご自身が作業の一部を分担されたことがわかります。
この一連の作業は大変なものですが、やってみなければわからない面白さもあります。例えば[文献8]で書いたような推理を重ねていく過程がそうでしょう。おそらく陛下ご自身も楽しみながら分析をしたに違いありません。
この続きは後編にて。