タヌキは日本では最もポピュラーな動物のひとつです。それは昔話や伝承、民話が多いことからもわかります。例えばかちかち山や文福茶釜といったものが有名です。
その他にも「タヌキが化ける」といった話は全国各地あちこちにあります。タヌキと伝承とは切っても切れない関係にあると言えます。
しかし、私が書いた書籍「タヌキたちのびっくり東京生活」ではそういった話は一切載せませんでした。その理由は、昔話や伝承のタヌキ像は、現実の動物としてのタヌキに必ずしも一致していないからです。
「タヌキの提灯行列」という伝承がありますが、それは本当にタヌキの仕業でしょうか。「タヌキにだまされて道に迷った」のはタヌキが犯人でしょうか。「タヌキが人間に化けた」というのは事実なのでしょうか。伝承の中では「タヌキのせい」とされていても、それが本物のタヌキと結びつくとは限らないのです。
伝承とはちょっと違いますが、マンガなどでよく描かれるタヌキ像は、たいてい本物のタヌキとはかけ離れているものです。これもリアルなタヌキが理解されていない例と言えます。
こういった想像上のタヌキ像というものはいったん捨ててしまって、あらためて動物としてのタヌキをちゃんと見てほしい。こういう理由があって、本の中では伝承ことをまったく書かなかったのです。
では、私が伝承の類をまったく無視しているのかというと、そうではありません。タヌキの伝承には関心を持っています。というのは、伝承の中には真実も含まれているかもしれないからです。
タヌキの伝承にはいろいろなものがありますが、その中で特に興味深いものがあります。それが「偽汽車」(にせきしゃ)です。偽汽車は本当にタヌキと関係があるのか、その謎を解いてみましょう。久しぶりに動物探偵の登場です。
「偽汽車」は全国的に見られる話です。細部のバリエーションはさまざまですが、だいたいこういう話になります。
「汽車(蒸気機関車)が夜走っていると、前方から別の汽車が近づいてきた。あわてて汽車を止めると、前方の汽車の姿は消えていた。このようなことが何度も繰り返されたため、ある時、汽車を止めずに走り続けてみた。すると、衝突の瞬間に前方から来た汽車は消えてしまい(この時に何かをひいたような音がした、という例もある)、何事も起こらず汽車は走り続けることができた。翌日明るくなってから衝突しそうになった辺りを調べると、タヌキ(またはキツネ)の死体があった。」
いかにも民話らしいお話ですね。
まずはこの「偽汽車」の話を分析してみましょう。
偽汽車で明らかなことは、これは明治以降の話だということです。というのも、鉄道が通らなければこの話は成り立たないからです。明治というと「文明開化」の時代ですが、そんな時代でもこういう怪異話があるというのは驚きです(実際には明治以降の伝承・民話の中はタヌキだけでもかなり多くあります)。偽汽車の話は日本各地で昭和初期頃まで存在するようです。
しかも、蒸気機関車に化けるのですよ! 当時、蒸気機関車は時代の最先端、何とハイテクなタヌキでしょう!(笑)
また、偽汽車はほとんどが単線での事件のようです。というのも、複線ならば1つの線路上は1方向にしか車両は走らないので衝突事故の心配はそもそもないからです。単線しかも夜間となると、何かの手違いで正面衝突するおそれもあるわけで、当時の運転手は対向車両にはかなり気をつかっていたのではないかと思われます。
それから、「偽汽車」とあるように登場するのは主に蒸気機関車であり、電車(架線から電力を得る車両)の例は少なめです。
ただし、複線化も電化(電車の運行)も完成していた大正時代の品川駅付近でも偽汽車の伝承はあるので、絶対的な基準ではありません。
さて、いよいよ謎を解いていきましょう。
この謎を解くヒントは、以前取り上げた「本所七不思議」のひとつ「送り提灯」にあります。「送り提灯」とは「夜道を歩いていると、前方に提灯の明かりが見えた。誰かがいるのかと思って近づいても追いつくことはできず、いつの間にか見知らぬ所に出てしまった」という話です。その正体はタヌキ、というのが私の推理でした。提灯の光がタヌキの眼に反射し、それが見えているのです。
これは偽汽車の話にもそのまま当てはめることができます。偽汽車の正体は線路上にいたタヌキの眼の反射光なのです。運転手は前方の線路上にある光点を発見し、それを汽車と思ってしまったのでしょう。汽車を止めれば、タヌキはあわてて逃げ出し、光点は消えてしまいます。汽車を止めずに進めれば、逃げ切れなかったタヌキは汽車にひかれてしまいます。偽汽車の話の内容にぴったり一致するではありませんか。偽汽車の正体はタヌキであることは間違いないと推理できます。
線路上のタヌキならすぐにわかるだろう、と現代人は思うでしょうが、線路上はたいてい暗い場所であるわけで、そういう場所では眼の反射光はよく目立ったはずです。
なぜ、タヌキが線路上にいるのか、ということは書籍「タヌキたちのびっくり東京生活」にも書きましたが、食べるもの(小動物や植物)があり、生活しやすいからです。しかも人間がほとんど立ち入らず、鉄道も夜間はあまり走らないため安全な場所でもあります。昔は鉄道の周囲にもタヌキが生活できる場所は多くあったはずですが、当時から線路上はタヌキが好む環境であったのだろうと推測できそうです。
偽汽車の話の中には、「偽汽車がごうごうと音を立てて突進してきた」というものもあります。さすがに線路上のタヌキがそのような大音響を発生することはできません。
その轟音の正体は、例えば近くの地形からの反射音と考えることができます。近くに崖地形があり、風向きなどの気象条件がそろうと、蒸気機関車が発する音が崖で反射して聞こえることがあったのではないでしょうか。
偽汽車の話は戦後にはほとんど無くなります。その理由は、前にも書いたように複線化が進んだことにあると思われます。また、運行速度の高速化で、タヌキが目に入らなくなってきたのかもしれません。
伝承や民話というと、大半は作り話かホラ話と思われる方は多いでしょう。この偽汽車の話も「タヌキが汽車に化ける」という部分は作り話ですが、「タヌキがひかれて死んでいた」という部分は真実なのではないでしょうか。
そう考えると、偽汽車の伝承からは面白いことがわかります。つまり、偽汽車の伝承の年月日と場所がわかれば、その当時現場にタヌキが生息していた証拠になるからです。これは、東京タヌキの歴史に関心を持つ私には重要な情報です。
現在、東京都23区内のタヌキの分布は、西部地域に偏っています。明治初期は、都心部も含めて23区全域にタヌキが分布していたことは確実です。明治以降百数十年の間にタヌキの生息域は減少していったのですが、その過程はどのようなものだったのかは私が関心を持って調べていることです。
偽汽車の伝承は、過去のタヌキの分布を知る手がかりになります。その他の伝承の中にもタヌキの生息を示唆しているものがあります。
非科学的に思える伝承や民話でも、科学的な視点で分析すると真実を発見できることがあります。そこから東京タヌキの謎が解明できるかもしれません。現在のリアルなタヌキの研究はもちろん必要ですが、過去の情報や伝承もまたタヌキ研究には役立っているのです。