2008年9月21日の朝日新聞・別刷り「緑のbe」のトップ記事は東京タヌキについてでした。その記事では私も登場しました。
この記事の中で、かつて(昭和時代後半)東京でタヌキが見られなかった理由として野良犬の存在や飼い犬の飼育形態が挙げられています。今回はその話です。
このタヌキとイヌとの関連性についてを先に指摘したのは記事中に登場する鈴木欣司氏であることはここにきちんと書いておかねばなりません。残念ながら私が気づいたのはつい最近のことだったのでした。
東京都23区内のタヌキの生息を調べるにあたって、ずっと気になっていたのは「タヌキたちはいつからそこにいたのか?」ということでした。江戸時代ならどこにタヌキがいても不思議はなさそうです。そこで、明治以降の東京タヌキの歴史を調べてみました。その分析は書籍「タヌキたちのびっくり東京生活」に載せています。明治初期には都心部にもタヌキがいたのは確実で、戦前も広い範囲にタヌキがいたようです。
ところが、戦後の高度成長期の頃になるとタヌキの目撃が極端に少なくなるのです。例えば年配の方に聞いてみても「ずっとここに住んでいるが一度も見たことがない」という証言ばかりなのです。タヌキが再びよく目撃されるようになったのは平成になった1990年代以降です。
20世紀の後半、東京タヌキたちは23区内にいたのでしょうか。現在の生息分布や生息状況から類推すると、高度成長期であってもタヌキが23区内で絶滅したとは思えません。タヌキたちはそこで暮らしていたはずなのです。
それでも目撃が少ないのはなぜでしょうか。これについて、私は「たまたま過去の情報が掘り起こせていないため」と考えていました。過去の情報を集めていけば、いずれ確実な証拠が集まってくるだろうと期待していました。
ところが、です。
今回の朝日新聞の取材の時、記者の方が「1980年代は野良犬がたくさんいた」という話をしました。それを聞いた瞬間、「ああ、そうか〜!」と私は直感したのでした。タヌキもイヌ科の動物です。タヌキと野良犬とは完全に競合してしまいます。体格はたいていイヌの方が大きいため、まともにぶつかればタヌキが不利です。
私が野良犬のことを思いつかなかったのは、昭和時代の東京をまったく知らなかったからです。私は生まれも育ちも福岡市で、就職の時に東京に来ました(1990年)。当時は特に動物学に興味があったわけではなく、「東京は野良犬が全然いないな」と気づいたのは2000年頃のことでした。これでは野良犬の影響にはいつまでたっても気づかなかったかもしれません。
とはいえ、私自身もかなりいいところまで行っていたのです。書籍「タヌキたちのびっくり東京生活」のp56?58では、タヌキがイヌを避けていること、もし野良犬がいたらタヌキには脅威であることを書いています(同書を持っている方はこのページをご覧ください。持ってない方は買いましょう!)。
ここまで理解していながらあと一歩足りなかったわけです。むうう…無念!
タヌキと野良犬の関係について、もう少し詳しく見てみましょう。
私はこの説を「野良犬仮説」と名付けています。
タヌキの行動を見ると、イヌを避けているのは明らかです。散歩のイヌが視界に入った途端に逃げ出すのを見たことがあります。また、イヌを飼っている家にはタヌキは来ません(室内飼いだと来る場合もある)。イヌが死ぬとタヌキが庭に来るようになったという話があります。
野良犬は飼い犬と異なり、人間にコントロールされていない危険な存在です。タヌキにとっては襲われる可能性もあります。出産直後の子どもが小さい時期は特に危険でしょう。体格のいいイヌにはタヌキは苦戦するでしょう。また、食べ物も部分的に重なっているはずで、タヌキの取り分が少なくなってしまうこともあったでしょう。
もし野良犬が多く生息する場合、それはタヌキにとっては「圧力」になるわけで、生息数も生息範囲も抑えられていたのではないかと想像できます。
具体的に検証してみましょう。
東京都動物愛護管理審議会の「東京都における今後の動物愛護管理行政のあり方について」(2006年)によると、「犬の捕獲・収容、犬・猫の引取り、負傷した犬・猫等の収容」のピークは昭和58年度(1983年度)の約6万頭となっています。これはネコも含まれていますし、野良犬以外も含まれるようですから、野良犬捕獲の実数は不明です。それでも半数以上は野良犬でしょう。
NHKアーカイブスを検索してみると、1976年の番組に「あすへの記録」というものがありました。その紹介文によると「去年の咬傷被害者は、2631人、捕獲数35988頭、住民からの捕獲依頼2万数千件にものぼっている」とあります。また、薬殺を行っていたとのことです。
以上の情報からは、東京都では1980年前後が最も野良犬が多いかったことがわかります。これはタヌキの目撃が少なかった時期ともだいたい一致します。現在でもタヌキは23区内に1000頭程度ですから、当時はタヌキよりも野良犬の方が圧倒的な勢力だったわけです。これではタヌキは雑木林の奥などで細々と暮らすしかなかったでしょう。人間に目撃されることもほとんどなかったのではないでしょうか。
(※野良犬については統計資料などをさらに調査して、この仮説を補強していきたいと考えています。)
以上が「野良犬仮説」です。
しかし、タヌキに影響を与えたのは野良犬だけではありません。それを説明するのが次の「飼い犬仮説」です。
まず、1970年代以前のことを思い出してみましょう。当時は、イヌを飼うといえば雑種犬を番犬代わりに庭で飼うのが常識でした。家の中で飼うのは高級な愛玩犬であり、それは少数派でした。
これがはっきりと変化したのは1990年代です。ミニチュア・ダックスフンドが大人気になったのは1990年代中ごろだったでしょうか。21世紀に入ってからはチワワが大ブームになり、その後はトイ・プードルの人気も出ています。その他の小型犬の人気も高いようです。
小型犬人気とともに変化したのがイヌの飼育形態です。屋外飼いがいつの間にか減少し、ほとんどが室内飼いになってしまいました。小型犬なら室内で飼っても問題は相対的に少ないこと、「ペットも家族の一員」という考え方が広まったことなどが背景にあったと考えられます。今では大型犬でも室内飼いのところが多いようですね。
これはマンション・アパート住まいという住宅事情とも関係があるのでしょう。以前は集合住宅ではペット禁止のところがほとんどでしたが、最近はそれも緩くなってイヌが飼えるようになったことも影響していそうです。
室内飼いへの移行はタヌキにとってもありがたいものでした。
タヌキが住宅地を歩く場合、やはりイヌに吠えられるのは嫌なはずです。あっちで吠えられ、こっちで吠えられ…というのでは歩きにくいことでしょう。ところが、イヌが室内に入ってしまった結果、住宅街はタヌキが歩きやすい場所に変化したのです(人間が歩いていても庭のイヌに吠えられるなんてことはなくなりましたよね)。
ちなみにタヌキVSネコの場合、タヌキの方が圧倒的に強いのでまったく問題になりません。
以上が「野良犬仮説」と「飼い犬仮説」です。
昭和時代後半に東京都23区でタヌキがあまり見られなかった理由は、この2つの仮説でだいたい説明がつくと思われます。ずっと謎だったことが意外とあっさりと解けてしまいました。残念なのは、それを解いたのが私ではなかったことです…。
では、その頃に東京都23区でタヌキの生息がゼロだったかというと、それは考えにくいです。おそらく大きな緑地の中でひっそりと暮らしていたのではないでしょうか。それを証明するためにも過去のタヌキ目撃情報を収集しなければならないのです。謎はまだ残っているのです。
このタヌキとイヌの関係からは、人間が生態系に与えている予想外のインパクトが存在することがわかります。
野良犬の駆除という小規模な行政行為(ダム建設などに比べればささやかな額です)がタヌキの生息に有利に働きました。
そして、イヌの飼育方法という個々人の嗜好の変化もまた、タヌキに有利に影響しました。
大規模な開発が生態系を大きく変えてしまうのは当然ですが、ちょっとした行政や嗜好でさえも生態系に変化をもたらしてしまうのです。人間の影響力というのは思ったよりも大きく強力なのだということが、東京タヌキの事例から理解できます。
近年の環境ブームで、自然保護、環境保全、生物多様性の維持といったことがよく叫ばれています。こういったことを口にするのは簡単ですが、東京タヌキの事例はそれを思い通りに実行するのは極めて難しいことなのだということを思い知らされます。
「野良犬仮説」と「飼い犬仮説」によって、戦後の東京タヌキの歴史についての見解も修正が必要になったようです。
これまでの私の見解は、
「戦後すぐから現在まで、東京都23区内のタヌキの生息数は減少する一方だった。」
というものでした。タヌキの生息できる環境は年とともに次第に減少してきているため、生息数もそれに伴ってずっと減少しているはずだと推測していたのです。
しかし、「野良犬仮説」と「飼い犬仮説」を考慮すると次のようになります。
「戦後すぐから1980年ごろまでは東京都23区内のタヌキの生息数は減少していった。その後、タヌキの生息数は回復傾向にある。ただし、爆発的に増加している兆候は無い。」
タヌキの数が最も少なかったのは、野良犬が最も多かった1980年ごろではないかと推測できます。その後、タヌキは野良犬がいなくなった空間に進出していき、生息域を広げました。それに伴い生息数も増加したはずです。
ただし、生息に適した環境は以前よりも減少しています(都市開発はずっと続いてきましたので)。そのためかつてほどには生息数の回復は見込めないでしょう。爆発的にタヌキが増加することもなさそうですし、その兆候も私には感じられません(つまり、東京タヌキが「急増」とか「爆発的増加」という表現は正しくありません。)。
野良犬の脅威が低下して既に20年ほどは経過しています。ひょっとしたら、現在の生息数あたりで安定状態に入っているかもしれません。 これからも開発が続くならば、タヌキの生息数は再び減少に向かうでしょう。
これが現在2008年時点での見解になります。