Vol. 445(2009/2/22)

[東京タヌキ探検隊!・今日の事件]神田川タヌキ落下事件・その1

2009年2月、東京都の神田川下流でタヌキが川床に落下し、救出されるという事件がありました。この事件は本来ならローカルなニュースでしかありませんが、ネットを通じて全国に知られる事件になってしまいました。
今回と事件はこの事件について、東京タヌキの研究をしている私自身が解説をします。今回はこの事件の経過と知っておいてほしい知識について書きます。


まず、この事件が全国に知れ渡ったきっかけになった記事を紹介しましょう。

毎日新聞記事・写真あり

毎日新聞記事

Yahoo!ニュース

Yahoo!ニュースの記事は毎日新聞記事と同一です。
ネット上の記事は時間がたつと消えてしまうものですので、次に全文を引用します。


東京・神田川に 「タヌちゃーん」住民ら歓声

 東京都文京区関口の神田川で14日朝、中州にタヌキがいるのを近くの住民が見つけた。都心のタヌキは珍しく、住民らが「タヌちゃーん」と歓声を上げた。

 性別不明で体長は50センチほど。体をなめたり、水につかったりして季節外れのぽかぽか陽気を楽しんでいるようだった。この付近の神田川はコンクリートで覆われており、護岸壁も高いことから「水が増えたらおぼれちゃう」と心配した住民が通報。東京消防庁の隊員が昼過ぎに網で捕獲し、警視庁大塚署に引き渡した。週明けに保健所に預け、取り扱いを決めるという。近くの主婦、鈴木真由美さん(43)は「1週間ほど前にも川にいたらしい。近くの林にすむタヌキが出てきたのでは」と話していた。

毎日新聞 2009年2月15日 東京朝刊


なお、ネット上に記事が掲載されたのは前日2月14日夜7時ごろです。


この新聞記事では「ほのぼの動物ネタ」のような雰囲気の事件です。しかし、実際はそのようなのんびりした事件ではありませんでした。
私が複数の地元住民から聞き取った情報をもとに、事件の経過をまとめてみると次のようになります。

2月9日(月)
1頭のタヌキが神田川河床にいるのが発見される。

2月10日(火)
レスキュー隊がタヌキを救出する。
しかしその後、タヌキは再び神田川河床に落下しているのが発見される。
再度の救出作業は行われなかった(既に夜になっていたのがその理由かもしれない)。
(深夜、地元住民から私あてに相談のメールが来る。)

11日(水)〜13日(金)
タヌキは姿を見せなかった。

14日(土)
再度の救出作業。タヌキは警視庁大塚署が預かる。
夜、ネットに記事が掲載される。
(Yahoo!ニュースからリンクが張られたために、深夜にかけてホームページ「東京タヌキ探検隊!」に多数のアクセスが殺到する。)

17日(火)以降?
確認をとっていないため不明だが、タヌキは放されているはずだ。少なくとも保健所送りにはなっていない。

14日はNHKも取材に来ており、夕方のローカルニュースで紹介されたようです。ただその内容はこの日の関東地方の異常高温にからめてのものであり(新聞記事同様に、暖かさに誘われてタヌキが出てきたというような内容だったらしい)、事件の本質にはほど遠いものだったようです。


ここで、参考資料を提示しておきましょう。

東京タヌキ探検隊!

私(宮本拓海)が運営しているホームページ。東京都23区(および周辺地域)に生息するタヌキについての情報を掲載しています。

東京都23区内のタヌキの目撃分布(2009年1月版)

上記ホームページに掲載している報告書。2006〜2008年の東京都23区内でのタヌキ目撃情報を集計しています。今回の事件を読み解くための最も基本的な資料ですのでぜひお読みください。

書籍「タヌキたちのびっくり東京生活」

私が書いた東京タヌキについての本です。ホームページにはあらゆる情報を掲載しているわけではありません。東京タヌキの全体像を知りたいならばこの本にも目を通してください。


この事件が注目されたのは、「大都会東京にタヌキがいる」という意外性のためと思われます。また、記事を読んでいろいろと疑問を持たれた方も多いでしょう。そういった疑問に答えることにしましょう。

●東京都23区にタヌキがいるの?

います。当然、野生です。
これについてはもはや疑問の余地はありません。既にテレビや新聞でも何度も取り上げられた事実です。上記の資料もご覧ください。
もうそろそろ「日本の常識」になったかと思ってましたが、まだその域にまでは達していないようですね。

●23区の都心部にもタヌキがいるの?

います。これも疑問の余地はまったくありません。それは上記の資料からもわかります。
もちろん、銀座や新橋のような繁華街にはタヌキはいません。緑地の多い場所を好んで生息しています。
今回の事件の現場となった文京区は、JR山手線の内側にありますが、ほぼ全域でタヌキが目撃されています。
また、現場付近はタヌキの生息状況が23区内で最もよくわかっている地域のひとつです。10〜20頭が生息していると推測されます。
今回のタヌキが逃げたペットの可能性はまずありません。

「都心部のタヌキは珍しいのか?」という質問に答えるのは難しいです。
全体の生息密度は「かなり低い」と言えます。しかし確実に継続的に定住しています。
目撃可能性で言うと、「めったに会えない」となります。生息していない場所では当然見ることはできません。生息が多い場所でも、タヌキは夜行性であり、人間に遭遇しないような行動をしているため目撃は難しいものです。
よって結論としては「生息は珍しいとは言えないが、目撃できるのは珍しい」となります。
今回の事件のように、昼間に多数の人が目撃する例はとても珍しいものです。これはタヌキが行き場を失ったための特殊な事例だからです。

新聞記事では「都心のタヌキは珍しく」とありますが、何を規準に「珍しい」と言うのかは実際のところ難しいものです。

●タヌキは上流から流れてきたのではないですか?

その可能性は非常に少ないです。すぐ近くにタヌキの生息地があるのですから、そこにいた個体だと考えるのが自然です。

また、神田川は支流の善福寺川、妙正寺川を含めほぼすべて3面コンクリート張りであり、水面に登り降りできる場所はほとんどありません。少なくとも現場近くにはまったくありません。ですから、このタヌキは誤って川に落下してしまったと考えられます。

●こういう事件はよく起きるのですか?

上記資料の「東京都23区内のタヌキの目撃分布(2009年1月版)」にも書いたように、河川落下事故は2006年〜2008年の3年間に私が把握しただけで4件発生しています。私が知らない落下事故もあったと思われますから、実際には毎年数件発生しているのではないかと思われます。
タヌキの生息地に重なり、タヌキが登り降りできない河川(つまり同様の落下事故が起こりえる河川)は、神田川、善福寺川、妙正寺川、石神井川、仙川、新河岸川などがあります。

●なぜタヌキは河川に落下するのですか?

正確な答えはわかりません。
川沿いの道路を歩いている時に、人間やイヌ、自動車などに驚いて、川の方に逃げてしまった、あるいは足を踏み外してしまった、というのが最もありえそうな答えです。
ただ、今回の事件のタヌキは再び河川に落下しています。当時の状況がよくわからないため、再落下の理由はまったく不明です。

●放っておいてもよかったのではないですか?

野生動物に対しては不介入が原則です。野生動物を殺すのはもちろん禁止ですが、逆に過保護になるのも良くないことです。
では、河川落下事故で救出することは過保護になるのでしょうか。

神田川に限らず、東京都23区内の中小河川は、河岸がほぼ垂直な「3面コンクリート張り」がほとんどです。いったん落下すると脱出はタヌキには不可能です。
今回の現場付近の神田川は掘り込みが特に深い場所です。どれぐらい深いかというと、潮の満ち引きで水面が上下するほどです。つまり、川ではあるけれど実質的には海水面と同じなのです(ちなみにこの付近の地面の標高は7m前後)。毎日新聞の写真では陸地にいるように写っていますが、あれはたまたま干潮時だったからにすぎません。
タヌキは満潮時には神田川に合流する排水管(雨水を流すための管か?)の中に退避していたようです(この排水管は毎日新聞記事の写真には写っていない)。3日間タヌキが姿を見せなかったのは、脱出路を探してこの排水管あるいは他の管を逆行していたのではないかと思われます。

この状況では、タヌキ本来の野生生活は不可能です。生きのびるには、人間が投げ与える食べ物に頼らなければなりません。そうやって生きていけたとしても、大雨で増水すると流されてしまうのは確実で、溺死してしまうでしょう。
人間の好奇の目にさらし続けるというのも不憫です。
これが「自然な状態」と言えるでしょうか?
不介入が原則だとしても、この状態を放置してよいのでしょうか?

私はこのような河川落下事故では救出すべきだと考えます。
救出後は、現場近くで放すのが原則であるのは当然です。

河川落下事故は新聞記事のように「日向ぼっこ」などというのんびりした状況ではないのです。なぜ昼間にこの場所にいたかというと、干潮時で陸地があり、気温も高く(14日当日は最高気温が23.9℃という異常な暖かさだった)、安心して休める状況だったからと推測できます。また、昼間の方が人間に目撃されやすく、食べ物を投げてもらえるかもしれないという期待もあったのかもしれません。

●消防が救出するなんて税金の無駄づかいではありませんか?

ごもっともです。消防は人命救助を最優先すべきです。もちろん誰か他の人が救出すればその方が良いでしょう。
しかし、捕獲作業は易しい仕事ではありません。垂直の壁を下りて、水につかりながら捕獲作業をしなければなりません。水量が多い場合は危険度も増します。作業の安全を考えると、慣れた人でないと難しいものです。素人が捕獲しようとして事故が発生するのはもっとまずい状況ではないでしょうか。
また、都心部では害獣駆除業者でも捕獲経験は少ないでしょう。また、猟銃でしとめるわけにもいかないのでハンター(猟友会)の出番でもありません(そもそも住宅地では猟銃の使用は禁止されている)。
以上のことを考えると、捕獲作業を最も確実にこなせるのは消防隊員と思われます。非常に申し訳ないと思いつつも消防に頼らなければならないのが現状ではないでしょうか。


このように、この落下事故は単なるほのぼのネタではない多様な意味を持っています。どうもマスコミというものは「動物=ほのぼのネタ」という画一的な図式でとらえる傾向があり、今回もそのフォーマットに従うように書かれています。新聞記事に載っていたのは表面的なことだけであったということは、もうご理解いただけたでしょう。
もし記者がこの事件の背景まで追求すればもっと深い内容の記事が書けたのではないでしょうか。なぜここにタヌキがいるのか、東京のタヌキはどうやって暮らしているのか、このような事故はよく起こることなのか、タヌキは救出すべきなのか、行政はどう対応すべきことなのか…いくらでも書くことはあるのです。
もっとも、記者ががんばって記事を書いたところで所詮ローカルネタです。編集部レベルでボツになってしまうことも容易に想像できます。限られた紙面、限られた字数という制約の下ではあれが精いっぱいの結果だったのかもしれません。

ただ、この新聞記事についてはひとつ重大な指摘をしておかねばなりません。
それは「週明けに保健所に預け、取り扱いを決めるという」の部分です。

いまだに勘違いしている人がとても多いのですが、保健所は動物の取り扱いは行っていません。イヌやネコでさえ扱っていません。イヌやネコなどの飼育動物は、東京都の場合は東京都動物愛護相談センター(東京都福祉保健局)が担当しています(ここでは野生動物は扱っていません)。
昔は確かに保健所が担当をしていました。しかし、飼育動物についての法律「動物愛護法」ができ(1999年に「動物の保護及び管理に関する法律」から大幅に改正された)、その管轄が環境省になったことで保健所ではなく各自治体の専門の部署が扱うことになりました(一部地域ではまだ保健所が扱っている場合があるかもしれません)。このことは2008年末の「元厚生省官僚連続殺人事件」(昔飼っていたイヌが保健所で殺されたことの逆恨みで元厚生省官僚とその家族を殺傷した事件)の際に報道されたので、周知の事実になっていると思っていたのですが…。
また、野生動物の担当は東京都の場合、東京都環境局です。

ですから、どのように考えても今回のタヌキと保健所はまったく関係がないのです。保健所も相談されたところで何もできないでしょう。それを知らなかった警察も間抜けですが、同様に知らなかった記者(および編集部)もそれと同じぐらい間抜けです。記者は警察に対して「なんでやねん!」と突っ込むべきだったのです。
なお、警察はその後の地元住民からの問い合わせに対して、「緑のあるところに放す予定」と回答していることから、この間違いには気づいたようです。

なお、この事件に関しては宮本にマスコミの取材や行政などからの問い合わせはまったくありませんでした。


今回のような河川落下事故は、これまでの発生状況からいっても毎年23区のどこかで繰り返されるだろうことは確実です。そのたびに大勢の人が右往左往するというのは、迅速な対応という点でも、効率という点でも好ましいものではありません。
では、どうすればよいのか。次回はこの問題について考えてみたいと思います。

東京都23区内での最新のタヌキ情報については
東京タヌキ探検隊!
のページをご覧ください。

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