Vol. 289(2005/10/30)

[今日の勉強]生物の名前はカタカナで書くべきか、漢字で書くべきか?

先日、朝日新聞の科学面のコラムに次のような趣旨のコラムが載っていました(10月18日付け夕刊)。


植物の名前は漢字で書くとその特徴がよくわかり、頭に入りやすい。しかしカタカナで書くと意味が失われ、表音文字の羅列になってしまう。学問の世界ではカタカナ表記をするが、他分野までもそれにならう必要はないだろう。


なるほど、その趣旨は理解できます。日本人なら漢字で書け、というのは心地よ響きに聞こえるかもしれません(もっとも、漢字は中国由来なので「日本人=漢字」というつながりにどれほどの意味があるのかは疑問ですが)。このコラムではあらゆる生物名を漢字で書け、とはいっていませんが、なんでもかんでも漢字にすればいいのだ、という極論を誘導してしまいそうな内容です。そんなあわて者はあまりいないことを期待しますが、念のためそれが無意味であることを説明しておくことにしましょう。実際、なんでも漢字で書くというのはまったく現実的でないお話なのです。
(コラムでは植物の名前が例に出されていましたが、動物でも事情はまったく同じですので、以下では動物の話で進めていきます。)


まず、動物の名前には漢字にできないものが非常に多くあります。例えばアイアイ、マンドリル、チンパンジー、ボンゴ、オリビ、イグアナ、コブラ…などなど。外国の動物を中心に数限りなくあるのです。もうこれだけで「漢字で書け」という論は破綻してしまいます。
これらひとつひとつに日本語名を作っていけばいいと思われるかもしれませんが、哺乳類で約5000種、鳥類は約10000種…と途方もない数がいるのです(既に日本語名がついているものも多いのですが)。脊椎動物だけでも大変なのに、昆虫となると数百万種にもなります。これらすべてに日本語名を与えるというのは現実的には不可能な作業なのです。

「外国の動物は仕方ない」という意見もあるでしょうから、外国の動物は除くという条件にしてみましょう。
でもアザラシとかセイウチとかアシカは日本語ですが漢字が無い動物です。アイヌ語由来、語源不明といったことがその理由です。はいはい、そういうのも例外扱いにしておきましょう。
それなら外国由来の名前も例外扱いにしておきましょうか。例えば「リスアカネ」というトンボがいます。この「リス」は哺乳類のリスではなくて、人名(イギリスのトンボ学者)から来ています。ですから「リス茜」と書くことになりますね。しかし、カタカナ書きと漢字書きが混在するのはあまり美しくありませんね。

以上のような例外を設けても(これだけ例外があるともはや漢字書きにこだわる理由も無いのですが)、まだ問題はあります。
例えば、寿司屋に行くと魚偏の漢字を並べた表示なんかがあったりします。これに挑戦してみた人もいることでしょうが、難読漢字のオンパレードで完璧に読める人はきわめて少ないでしょう。
魚ではなくて鳥でも鳰、鵯、椋、鶺鴒、鸛、鵜、鴇、雉、水鶏、鴫、鶲、鶸、鵲などなど難読漢字はたくさん登場します。哺乳類でも「臘虎」とか「膃肭臍」とか書かれてもほぼ全員読めないでしょう。
すべてを漢字で書こうとすると簡単に常用漢字の枠をはみ出してしまいます。そうなると誰も読めない、誰も書けないという事態になってしまいます。つまり漢字書きは実用的でないのです。

全部漢字書きにするのは不可能、そして何でも漢字にするととたんに読みにくくなる??ちょっと考えるだけでもこれだけの不都合があるのです。漢字書きにこだわるのはまったくの無駄な努力だと私は断言します。


では、専門家はなぜ生物名をカタカナ書きするのか説明しておきましょう。
生物名をカタカナ書きするというのは、学問上の取り決めごとです。法律などがあるわけではありませんので、専門家の間だけの慣例にすぎませんが、広く採用されているためほとんど「常識」の扱いをされているルールです。このルールは当面変わることはないと思われます。
なぜカタカナかというと、表記を統一するためでもありますが、地の文章と生物名を明確に区別できるという利点もあるからです。漢字やひらがなで生物名を書くと、文章の中に名前が埋もれてしまい、場合によってはどこからどこまでが生物名なのかがわからなくなってしまうでしょう。カタカナで書けばそういう不都合が無く生物名がはっきりと示されるのです。(ということは、このルールは戦後に文語体から口語体に移行した後のものであることがわかりますね。実際、戦前はひらがな書きだったそうです。)
カタカナがない欧米系の言語などではどうやっているのでしょうか。(学名ではない)通称の場合、英語では単語の先頭を大文字にするのが専門家間のルールのようですが、一般の文章ではこのルールは必ずしも守られていないようです。
学名の場合は明確なルールがあり、「学名は斜字体で書く」「属名の先頭は大文字」となっています。斜字体にすることによって地の文章と区別でき、属名の先頭を大文字にすることによってそれが属名であることを明示しているのです(この思想が日本語でのカタカナ書きに影響したと思われる)。


私は専門家という立場ですのでカタカナ書きをするようにしていますが、だからといってこれを皆さんに強制するつもりはありません。ひらがなでもカタカナでも漢字でも、好きな書き方をすればいいと思います。
ただし、それぞれの表記には「性格」というべきものがまとわりついていますので、それを常に念頭に置き、自分の文体や文章の目的に合うものを選ばなければなりません。例えば、カタカナ書きの場合は科学的・専門的という雰囲気になる一方でお堅い印象にもなります。それでも学問的正確さが重要ならばカタカナ書きをすべきです。漢字書きの場合は文学的な雰囲気になりますが、それは非専門的な印象を与えるでしょう。また、難読漢字は読者の読む意欲をそぐリスクがあることを覚悟せねばなりません。
こういった文字の与える印象を考慮することも作文術には必要なことなのです…って、まるで文章教室みたいな結論になってしまいしたね(笑)。でも私自身、著述業をやっているのでこういうことは本当に気を使っているのです。

では、最後にまとめを。

  与える印象 メリット デメリット
カタカナ 学術的、専門的 地の文章から名前を区別できる
誰でも読める
統一された表記ができる
名前の由来がわかりにくい
漢字 文語的、文学的、古い印象 名前の由来をイメージーしやすい 難読漢字が多くなる
ひらがな 口語的、やわらかい印象 誰でも読める 地の文章からの区別が難しい
名前の由来がわかりにくい


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