Vol. 449(2009/3/29)

[今日の地図]東京消失川を探せ!・その1

今回もまた動物とは関係ない話で申し訳ありません。ただ、これも東京タヌキの調査研究から派生したものであり、東京の地形を語る上では欠かせない要素なのです。
もうひとつ申し訳ないことに、今回の話は高円寺・阿佐ケ谷になじみのない人にとってはちんぷんかんぷんの内容です。東京都23区の西部は武蔵野台地を刻む中小の川がたくさんあった、ということがおわかりいただければありがたいです。


「消失川」とは埋め立てられたり暗渠化されたりして地表から消えてしまった川のことです。これを表す何か適切の言葉がないかと探したのですが、見つからなかったので「消失川」という名称を使うことにします。もうちょっといいネーミングほしいところですが。

私と消失川の最初の接点は、今回この後で紹介する消失川を歩いたことです。1990年代後半に私は高円寺に引っ越してきたのですが、選挙の投票所となる小学校へ行くルートを探している時にこの道路に気がついたのです。この道路は自動車が乗り入れることができず、道路の真ん中になぜかすべり台があるという奇妙なものでした。「遊歩道」扱いの割には狭く、緑や遊具が少ないのも不思議でした。この時はこれが消失川とは気づきませんでした。
これとは別に、高円寺にはJR中央線に沿って東西に遊歩道が延びています。その名前は「桃園川緑道」です。これは名前の通り、桃園川を暗渠化して緑道として整備されたものです。桃園川は神田川の支流で、阿佐ケ谷付近を起点に東へ流れ下り、東中野付近で神田川に合流します。
前に書いた高円寺の遊歩道が桃園川の支流だと気づいたのはいつだったかはっきり覚えていません。私が気づいた理由は、これが川だったとしたら説明できる点が多いからでした。
まず、道幅が狭いのはこの支流の川幅自体が元々狭かったからでしょう。川ぎりぎりまで土地が利用されていたため、埋め立てても自動車道路にはできなかったのです。
遊歩道が周囲の道路を無視するように曲がっているのも、元は川だったからと考えれば納得できます。
また、遊歩道に沿っている家の玄関が遊歩道の側に向いていないことが多いことも証拠になります。川に向かって玄関を作るなんて意味がありませんからね。もちろん、新しい建物の中には遊歩道側に玄関がある家もあります。
そして、遊歩道は谷になっていることが決定的でした。谷といっても非常に緩やかな傾斜で、数mほどしか高低差はありません。気がつかない人も多いかもしれません。それでも数値地図で標高を強調して表示すると、これが明らかに谷であり、川であったことがわかったのでした。

東京都23区にはこのような谷地形が多くあります。
東京都の大半が「武蔵野台地」であることは以前にも書きましたし、これは東京タヌキを考える上でも重要なポイントです。この武蔵野台地には、神田川、石神井川、目黒川、渋谷川などが流れています。これらの川は台地に谷を刻んで流れています。そして、そこから枝分かれする支流も同じように谷を刻んで流れています。「東京は坂の多い街である」と言われることがありますが、その理由は台地を削る多くの川に由来するものなのです。
しかし、小さな川はほぼすべて暗渠になるか、埋め立てられるかして私たちの目には見えなくなってしまいました。これが「消失川」なのです。

私はタヌキの調査のために、タヌキが目撃された現場を歩くことがあります。すると、「あれっ?これは消失川ではないか?」と思われる道を見つけることがあります。消失川は地図上で見つけることは難しいのですが、現地を歩いてみると前に書いたような特徴から消失川だとわかることがあります。
消失川に沿う地域では標高の高低差が必ずあります。書籍「タヌキたちのびっくり東京生活」ではタヌキが好む場所の特徴のひとつとして「高低差のある土地」を挙げました。崖地は開発が難しく、緑地が残りやすいためタヌキの生活に適していると考えられるからです。ただし、消失川付近の高低差は「崖」というほどではありません。特に緑地が多いわけでもありません。
しかし、やはりタヌキと関係があるかも…と思わせる事例はあります。その関連性がどれほど高いのかは評価は難しいのですが(タヌキは高低差がほとんどないところにも生息しているからです)。

タヌキとの関連は脇に置いておくとしても、消失川が見えてくると地形が見えてきますし、さらには土地の利用や開発の歴史も想像することができるようになります。東京を探索するにあたっては、消失川という視点は非常に面白いものです。


さて、説明よりも何よりも、現場を歩いてみることにしましょう。(撮影は2008年12月)
歩くのは私が最初に気づいた高円寺の消失川です。なお、消失川は自動車が入れませんので、googleのストリートビューでも見ることはできません。


位置:35.703416,139.645865
(このカンマ区切りの2つの数字をgoogleマップで検索すれば位置が表示されます。)

桃園川緑道。消失川が桃園川に合流する地点です。
この付近は平坦な地形になっていて、かつては水田だったのではないかと想像されます。ここには橋がかかっていたことがわかりますが、道幅が広いことから何か重要な家などがあったのかもしれません。


南を向くと、普通に道路がありますが…。


すぐに道幅が狭くなります。道に面した玄関が少ないので、川があった跡だとすぐにわかります。


ここからは車が入れない遊歩道になっています。かなり昔に川は埋め立てられたようで、玄関が面している家も少なくありません。


道路の真ん中にすべり台が出現! 現在では異様なシチュエーションですが、昭和時代ならば子どもたちが遊ぶ光景が普通に見られたはずです。


さらに遊歩道は続きます。道の曲がり具合が川っぽい感じです。左に見える白い塔は送電線。


位置:35.700852,139.6448
「馬橋児童遊園」の看板と、またしてもすべり台。道路が児童遊園を兼ねているというのも今となっては不思議な取り合わせです。子どもが多かった時代を思い起こさせます。
児童遊園は消失川のほとんどを占める長い長い公園です。
ちなみにこの看板の下はゴミ出し場所になっています。


位置:35.700694,139.643683
南北に延びる道路「馬橋通り」と交差。
この辺りで青梅街道から早稲田通りにまっすぐ通じている道路は他には環七通りと中杉通りしかありません。この馬橋通りは大正時代に作られた道路だそうで、中央線の歴史にも関わるのですが、長くなるので省略します。興味のある方は「馬橋通り」でネット検索してみてください。


遊歩道の車止め。これまたレトロ風味の図柄。


この交差点から1本北へ行くと、杉並区立第六小学校があります。ご覧のように3mほどもある段差になっています。これは盛り土で高くしているのですが、土地全体も北に向かって標高が高くなっています。遊歩道は間違いなく谷底にあるのです。


位置:35.699842,139.642111
さらに進むと右手に「阿佐谷にしはら公園」があります。


やや道幅が広くなって、さらに遊歩道は続きます。それでも自動車は基本的に入れません。


今度はブランコ登場。そして並木もあります。


またまたすべり台、ブランコ、そして並木。並木は川べりに植えられていたものでしょうか。それとも埋め立てた後に植樹されたのでしょうか。


道路が緩やかに登っています。


位置:35.699765,139.637566
その行き着く先は、商店街「阿佐谷パールセンター」の南端。どうやらここが源流のようです。少し行った所には杉並区役所があります。
出発地点からここまでの距離は約1kmです。

下の図は今回の消失川と周辺の地形図です。この地図の範囲での最低標高と最高標高の差は10〜15mほどです。中央を東西に流れる谷地形が桃園川です。今回歩いた経路も明らかに谷地形になっているのがわかります。


この支流の流れる一帯は、かつては「馬橋」(まばし)と呼ばれる土地でした。現在では高円寺北、高円寺南、阿佐谷南といった住所表記になってしまい、「馬橋小学校」や「馬橋稲荷神社」、「馬橋公園」といった名前がわずかに残る程度です。
この支流に名前を付けるとすれば、「馬橋南川」とでも呼べばいいでしょうか。気になってさらに調べてみたところ、次のようなホームページを見つけました。

天保新堀用水路

正一位足穂稲荷大明神の勧請(天保新堀用水路の地図も掲載)

これによるとこの消失川は善福寺川(これも神田川の支流)の水を引く用水路の一部であったことがわかります。しかし、この流路のすべてが人工水路であったとは考えにくいのです。というのは、今回歩いた区間は明らかに谷地形になっており、自然の川が流れていた時代が確かにあったと思われるのです。ゴール地点の阿佐谷パールセンターの先、青梅街道の南側の用水路へは明らかに尾根を越えなければならないため、人工的な掘削が行われたのは明らかです。(青梅街道は尾根づたいに延びている道路なのです。)


誰も見向きもしないような狭い路地から歴史が見えてくるという不思議なお話になってしまいましたが、馬橋の消失川はこれだけではないのです。次回はこの続きです。


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