さて、今回も「子猫殺し」事件の続きです。今回は法律の話が中心です。
その前にひとつ。
今回の事件の元になった坂東氏の文章や、これに関連する文章は、このまとめページに掲載されています。この事件をあまりご存知ない方はこのページをご覧になることをお勧めします。
「文芸春秋」(10月号)の呉智英の文章について
私は呉氏がどのような方か実は全然知りませんが(名前を知っている程度)、動物問題についてよく理解しているとは思えません。
呉氏の文章では、動物愛護法が大したことのない些末な法律のように書かれています。呉氏が法律の勉強をされた大昔は動物愛護法はありませんでしたからそう見えても仕方がありません。動物愛護法の前身である「動物の保護及び管理に関する法律」が制定されたのは1973年(昭和48年)でした。
また、今でも動物関連の法律は法曹界のメインストリームではないでしょう。日本には法律が1802あります(憲法を含む。2006年6月現在)。これに政令、勅令、府令、省令まで含めると計7238。条例を加えるとさらに膨大なものになります。これだけの数があるのですから、学校ですべての法律を教えることはできませんし、法曹関係者がすべての法律に通じている必要もありません。
しかし、法律は法律であり、重要でないから罪が軽いなどということにはなりません。
動物についての法律はいろいろありますが、その筆頭に挙げられるのは「鳥獣保護法」とこの「動物愛護法」です(参照「動物六法を選ぶとすれば」)。前者は野生動物を、後者は飼育動物を対象にした法律で、これらが動物関連法の2つの柱といえます。これらを知らずして「動物と法律」は語れないでしょう。
呉氏は動物愛護法を知らなかったと述べていますが、これは自らの無知を公言しているということになります。この程度の知識の呉氏に動物愛護法を論ずる資格があるのでしょうか。
呉氏は「動物愛護法専門の弁護士はいない」と書いています。
「動物専門弁護士」というのは実際いないでしょう。しかし、動物関連法に熱心な・積極的な弁護士はいます。事実「ペット法学会」というものがあるのですから(ただし、ホームページが消えてしまっているのでちゃんと活動しているかどうかあやしいが)。また、ペットと法律についての書籍もいくつも出ています。
弁護士のような司法試験合格者でなくても、私のように動物関連法に深い関心を持っている人もいます。
また、動物愛護団体は、その活動のひとつとして動物愛護法改正の運動をしていることが多いものです。
動物愛護法は、呉氏が考えているよりもずっと多くの人たちが関わっている法律です。
動物虐待についての法律について、呉氏の文章は不十分です。もう少し補充してみましょう。
まず、軽犯罪法に関する記述は正しいものです。その内容は、
第1条「左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。」
第21号「牛馬その他動物を殴打し、酷使し、必要な飲食物を与えない等の仕方で虐待した者」
となっていました。
この文面から読み取れるのは、これはおそらく使役動物(人間の活動を補助する動物)についてのものであり、ペットを対象にしているようには見えません。ペット虐待と同列に扱うのはちょっと違うように思います。
軽犯罪法は、呉氏も書かれているように、実際にはほとんど実動していない法律です。軽犯罪法違反が重大な事件に発展するようなことはないでしょう。
(東京の繁華街では、警察官が通行人の持ち物を調べることがあるが、これは軽犯罪法の第2号(刃物の所持)の違反を調べている。警察が積極的に軽犯罪法に取り組んでいるのはこれぐらいではないだろうか。)
※用語解説 懲役=原則1ヶ月以上20年以下。強制作業あり。 罰金=10,000円以上。前科になる |
時代が進み、ペット飼育が普及するにつれ、動物虐待の罰則がこの程度というのは軽すぎるのではないか、という世論が増えてきました。
そこで登場したのが1973年(昭和48年)制定の「動物保護管理法(動物の保護及び管理に関する法律)」でした。
この法律には次のようにあります。
第13条 保護動物を虐待し、又は遺棄した者は、3万円以下の罰金又は科料に処する。
※これは1983年(昭和58年)の改正法からの引用だが、この項目は1973年のものと変更されていない…と思う。
この法律の施行と共に、軽犯罪法の第1条第21号は削除されます。
こうして動物虐待はより重大な犯罪に位置づけられたのですが、それでも罰金刑にすぎませんでした。この罰では不十分だとする意見は当時からあったはずです。
動物虐待により重い罰を与えることはできないのか。そこで利用されてきたのが刑法の器物損壊罪です。
動物を「器物」扱いするというのは違和感がありますが、「動物は人ではない(法人でもない)」のですから一括して「器物」扱いされるわけです。また、「器物」という言葉には「誰かの所有物」という意味合いもあります。ですから誰の所有物でもない野生動物は器物ではありません。飼育動物の場合は所有者がいますので、飼育動物はその人の所有物と見なされます。
飼育動物に危害を与えて死傷させた場合、それは所有物を損壊したことと同義であるので器物損壊罪に問える、というのが「動物虐待罪=器物損壊罪」の理屈です。
器物損壊罪は「3年以下の懲役または30万円以下の罰金もしくは科料」(これは現在の条文なので、当時は違っていたかも。誰か教えて〜。)ですので、より重い罰を与えることが可能になりました。
動物虐待の多くはこれで処理できました。しかしすべてではありませんでした。
飼い主自身が自分の飼育動物を虐待することには器物損壊罪が適用できないのです。器物損壊罪は「他人の」所有物を損壊する場合しか扱えません。所有者自身が自分の持ち物をどう扱うかはその人の自由ですから。これでは飼い主自身がペットを虐待することを罰することができません。
また別の意見として、動物を「物」扱いするのは変ではないかというものもありました。
これらの問題は、1999年に動物保護管理法が動物愛護法に改正された時に改善されました。当時の条文では次のようになっています。
第27条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。
2 愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行つた者は、30万円以下の罰金に処する。
3 愛護動物を遺棄した者は、30万円以下の罰金に処する。
これによって、動物虐待罪は器物損壊罪並みの扱いになりましたし、飼い主による虐待も含めることができるようになりました。
もうひとつ注目すべきことは、ネグレクトにも罰則を定めたことです。ネグレクトとは、人間の場合は「育児放棄」と言われることもありますが、動物の場合は飼育を放棄し、食べ物を与えない、病気になっても病院に連れて行かないといった状態のことです(「ネグレクト」は動物愛護関係でも普通に使われる用語です)。
なお、現在でも条件によっては器物損壊罪を適用されることがあると思われます(例えば、初犯か重犯かによって判決は違ってくる。どちらも初犯で懲役がつくことはあまりないはず。2回目以降となるとより罪は重くなるので、器物損壊を繰り返すような場合は器物損壊罪で懲役刑にする、という判断がされることもあるだろう)。
ちなみに現在はさらに罰則が強化されています。
第四十四条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
2 愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行つた者は、五十万円以下の罰金に処する。
3 愛護動物を遺棄した者は、五十万円以下の罰金に処する。
以上が動物虐待罪の歴史です。多分これで合っていると思うのですが、少々間違いが含まれているかもしれません。
ところで、上記の器物損壊罪については、呉氏の文では奇妙なことにまったく言及されていません。動物虐待罪の歴史を語る上では器物損壊罪は避けることはできない有名なトピックなのに、です。このことからも呉氏の不勉強がよくわかります。
(字数の都合で省略した、という言い訳もできるのでしょうが、それでもさらっと触れるぐらいはできるはずなので、やはり呉氏は知らなかったのでしょう。)
次は呉氏の言うところの「獣権」についてです。
「獣権」とはまたひどい言葉ですね。英語では「animal rights」と呼ばれるものを「獣権」と言っているのでしょうが、普通は「動物の権利」と呼ばれるものです。「獣」という語は哺乳類だけを指すものです。動物愛護法では哺乳類の他に鳥類、爬虫類も含みますから(第44条4)、「獣権」という語は不適当でしょう。「獣」という語には「けだもの」という否定的なイメージも含まれます。呉氏はわざと「獣権」という語を使って動物愛護を見下そうとしているのかもしれません。言葉の遊びに惑わされないようにしてください。
私はここでは「動物の権利」と言いかえることにします。
さて、呉氏も書くように、「動物が権利を持ち、それを行使することなど、ありえない。なぜならば、権利とは、人間を社会の主体として人為的に定めた制度だからである。」というのは正論です。それが現代法の根幹と言えるでしょう。
しかしですね、動物愛護関係者が求める「動物の権利」とは、動物に財産権を認めたり、動物に選挙権・被選挙権を与えたり、動物が裁判を起こしたり、動物に刑法を適用したり、といったことではありません。そんなことを主張する人はよっぽどラジカルな人だけです。ほとんどの動物愛護関係者は現在の法体系の中でできることをしようとしているのです。
呉氏の書き方では、動物愛護関係者がまるで秩序を破壊する反逆者か異常者のようです。呉氏はありもしないことをただただおおげさにあおっているだけなのです。
ただ、「動物が裁判を起こす権利」については現実に実行されています。自然保護を求める裁判で、動物たちが原告になった例が日本でも既にいくつもあります。ですが、日本の法律では動物が原告になるということは想定されていないため、判決では動物は原告から除外される結果になっています。こういう結果になることは原告側も十分承知の上です。それでもわざわざ動物をひっぱりだすのは、世間的な注目や同情を集めやすいという戦略的な意味があるからでしょう。法体系をひっくり返すような意図は実質的にはありません。
動物が原告になれる可能性は今後も低いでしょう(少なくとも10年20年という時間が必要でしょう)。原告になれるのなら被告にもなれなければバランスが悪いですからね。
もうひとつ、書籍「動物裁判」についてです。
呉氏が言及している書籍「動物裁判」は、ずいぶん前に私も取り上げています。
この「動物裁判」とは、中世ヨーロッパにおいて動物が裁判の被告になっていたことを指しています。上にも書いたように、現代の法体系では法の対象は人または法人であり、動物は被告にも原告にもなりえません。
だからといって、同書は「中世ヨーロッパは幼稚な文明だった」と揶揄する内容ではありません。なぜそのような法体系が築かれ、そして消え去っていったかを検証していく内容です。
呉氏の文章はよく読めば同書をちゃんと理解していることがわかるのですが、雑な文章であるために呉氏の個人的意見と同書の内容が混同されるおそれがあります。書籍「動物裁判」の中心テーマは中世ヨーロッパにおける動物関係の裁判であり、過去のあるいは現代の動物関連法を批判した内容ではありません。また、決して動物愛護をバカにしたような内容でもありません。
同書は動物虐待を直接扱ったものではありませんが、動物法の歴史的な流れを考える上では非常に興味深い内容です。その方面に興味がある方にはご一読を勧めます。同書はもう書店には流通していないかと思っていましたが、Amazonで調べると現時点でも取り扱っています。
さて、最後は呉氏の文章全体の感想です。
全般的に、呉氏は法律にお詳しいようですが、ここまで見てきたように動物法関連をきちんと理解していないのは明らかです。
また、呉氏の主張では、動物愛護法は些末なものであり、動物を法律の対象にすることが異常なものであるように書いてあります。では、なぜ些末で異常な法律が徐々に拡充されてきたのでしょうか。これは人間のペットに対する意識が変化してきたことの反映と考えられるでしょう。つまり、動物は適切に飼育されなければならない、という意識が普及してきたということです。呉氏はこういう世間の動きをまったく理解されていないようです。
そして、もっとも肝心なことは、動物虐待は違法行為(犯罪)となること、坂東氏の行為は動物虐待であることについて呉氏は何も言及していないことです。呉氏は、動物虐待=犯罪であることは明らかであり、わざわざ書く必要もないと考えたのでしょうか。それとも動物愛護法なんて遵守する必要はないとお考えなのでしょうか。自分の立場をあいまいにして、法律論で読者を煙に巻くこの文章は、私には知識人の言葉遊びにしか見えませんでした。
まあ、私のような法律のアマチュアに簡単に論破されるような文章を書くようでは、呉氏もたいしたことはないですね。
さて、この「子猫殺し」事件は各種メディアで紹介されてきましたが、どうも動物愛護側の主張があまり取り上げられていないように思えるのです。報道というものは、賛否両論があるならばその両方を公平に扱わなければならない、という原則があります。ですから坂東氏や彼女を支持する意見が取り上げられるのはかまわないのです。
ですが、どうも動物愛護側の意見が目立たないのです。例えば、坂東氏の文章は何度も新聞・雑誌に載りました。坂東氏を擁護する複数の「知識人」の文章も雑誌などに載りました。ところが、動物愛護側の方はそれに匹敵する機会が与えられていません。公平な報道を目指すならば、動物愛護側にもページを割いてほしいものです。
この「子猫殺し」事件について、私の考え方をもう一度まとめておきましょう。
まず、坂東氏の行為は動物虐待です。これは日本国内ならば間違いなく動物愛護法違反になります。坂東氏やその擁護者たちはこの点を素通りしています。
この動物虐待行為は見逃していいものではなく、問題行動であることを認めさせ、同じことを繰り返させないようしなければなりません。つまり法律に基づく処分が必要ということです。(タヒチはフランス領なので日本の法律は適用できませんが、フランスの法律に基づいて取り扱われることを希望します。)
その一方で、私は哲学・倫理・思想の論争に関わるつもりはありません。坂東氏はこの事件を「生と死」「人間と動物」「都会と田舎」といった観念論の方向に誘導しようとしています。それはそれで大切な話であるのは間違いありません。ただ、そういった哲学論争になると、結論の出ない無限ループにおちいってしまうのは明らかです(坂東氏はそれを狙っているのでしょう)。それぞれの人はそれぞれの考え方を持っているのですから結論が出ないのも当然です。
理想的には、動物愛護を理解してくれない人たちを説得すべきなのでしょうが、私の経験から言えば無理解な人の考えを改めさせるのはかなり難しく、苦労ばかりが多い印象があります。坂東氏は、自分の思想に凝り固まり、その思想の香りに酔いしれているように見えます。このような人を説得するのはまず不可能です!(残念ながら)
また、動物愛護派の方々もその思想のベクトルがそれぞれ微妙に異なっているので、完全に統一された見解を導き出すのも困難です。
それならば、結論の出ない哲学論争に踏み込むよりは、大多数が納得できる法律違反行為を旗印にした方が良いのではないでしょうか。