執筆:宮本 拓海(東京タヌキ探検隊!)
ずいぶん久しぶりの更新になりました。やはりこの話題は取り上げないわけにはいきません。
2016年10月6日、天皇陛下による皇居のタヌキの論文についての報道がいっせいに始まりました。これは宮内庁の発表によるもので、ニュースリリースは宮内庁ホームページにも掲載されています。
今回の論文のタイトルは「Long-term Trends in Food Habits of the Raccoon Dog, Nyctereutes viverrinus, in the Imperial Palace, Tokyo」です。
タイトルが英語であることからわかる通り、論文本文も英語です。難しい数式や理論が登場するわけではないので、英語も平易で大学生レベルなら問題なく読みこなせるものです。専門用語も植物名(学名)もネット検索で簡単に調べることができます。
この論文は下記ホームページからダウンロードできます。
研究と標本・資料 ≫ 学術出版物 :: 国立科学博物館
論文のタイトルの日本語訳は、宮内庁では
「皇居におけるタヌキの果実採食の長期変動」
となっていますが、
国立科学博物館では
「皇居におけるタヌキの食性の長期変動」
としています。
直訳では国立科学博物館の方が正しいのですが、内容的には宮内庁の方が近いと言えます。
ところで、前回2008年の皇居のタヌキの論文のタイトルは「皇居におけるタヌキの食性とその季節変動」でした。これらはまぎらわしいタイトルですので、以下では今回の論文を「16年論文」、2008年の論文を「08年論文」と呼ぶことにします。
08年論文もネットからダウンロードできます。
「皇居におけるタヌキの食性とその季節変動」ダウンロードページ
08年論文は日本語です。
16年論文は08年論文と調査方法・調査結果で重なる部分が多くあります。先に08年論文を読んでおくと16年論文も理解しやすいでしょう。
08年論文の時にも「いきもの通信」に解説記事を掲載しました。皇居のタヌキについてや研究の方法について書いてありますので、こちらもお読みください。
「皇居におけるタヌキの食性とその季節変動」の読み解き方 前編
「皇居におけるタヌキの食性とその季節変動」の読み解き方 後編
タヌキのフンの調査方法は、未完ですが私自身が書いたものを公開しています。
08年論文までの経緯は上記記事を参考にしてください。
08年論文の後も、皇居のタヌキの研究が続けられていることは私も知っていました。私は皇室マニアではありませんが、タヌキ情報に注意していればわずかな情報も捕まえられるものです。
その研究のひとつはテレメトリ調査、つまり電波発信機をタヌキに装着してその行動を追跡するものでした。
ラジオテレメトリーを用いた皇居における夕ヌキNyctereutes procyonoidesの行動圏調査
宮本はこの論文はまだ読んでいませんが、16年論文内でも言及されており、読んでおきたい論文です。
タヌキのフンの分析も、08年論文で完結しているとは思えず、何らかの形で継続しているだろうとは思っていました。ただ、この研究方法ではかなりのリソース(この場合は特に人員と時間)が必要で続けるのは大変なことであり、研究は継続されていない可能性もありました。ですが研究方法を工夫することで継続していたことが16年論文でわかったわけです。
08年論文と16年論文は研究内容は似ているものの、違いもあります。まず、16年論文は英文になりました。その理由はさすがに私にはわかりません。
08年論文が意外と海外からの反響があったのかもしれません。英訳のリクエストが多数来たので今回は最初から英文で、ということかもと想像したりしています。
英文なら世界中で読まれるわけですから、タヌキの国際理解のためにも喜ばしいことです(タヌキは東アジアにしか自然分布していません)。
08年論文と16年論文では、著者はほぼ同じ(4名は同じ)ですが、その並び順が違っています。その中でも注目すべきは天皇陛下ご自身で、08年論文では末尾だったのが、16年論文では筆頭になっています。
著者名の筆頭は「ファーストオーサー」、末尾は「ラストオーサー」と呼ばれ、特別な意味を持ちます。
ファーストオーサーは、論文に最大の責任を持つものであり、研究で主導的な立場にいた人です。
ラストオーサーは、一般には研究室のトップ(教授)や研究を統括・指導した人物となります。
天皇陛下の著者名位置が前回と違っているのは研究方法の違いによるものと言えます。
08年論文では、皇居全域を対象としたため、皇居内のためフンをくまなく探さなければなりませんでした。そうなるとこれはチームでの作業になります。また、多数のフンを分析するにもチームが必要になります。こうなるとお忙しい天皇陛下ご自身で調査・分析にかかわれる機会は限られることになってしまいます。そのため天皇陛下は全体のまとめ役としてラストオーサーになったのだと推測されます。
16年論文では、調査対象のためフン場を1ヶ所にしぼりました。これなら天皇陛下お一人でも調査・分析の大半を実行できる分量だったのでしょう。そのため今回は天皇陛下ご自身がファーストオーサーになられたのだろうと推測できます。論文の執筆も天皇陛下ご自身によるものだろうと考えられます。
(08年論文と16年論文では採取したフンの個数はほぼ同じですが、08年論文は調査期間は1年6ヶ月、16年論文では5年間で、忙しさの度合いがかなり違っています。)
ここからは16年論文の内容を見ていきましょう。
フンを採取した今回の「ためフン場」には「A1」という名称が付けられています。この「A1」は08年論文でも登場しており、「定点調査地点」となっています。この時は皇居全域からフンを採取していますが、このA1が主要な採取場所だったようです。
「A1」の「A」は地区名を表しており、Aは吹上御苑地区、Bは吹上御苑外地区、Cは宮殿地区、Dは東地区となっています(地図も08年論文に掲載されています)。
またナンバー1が割り振られていることから、A1は08年論文以前から知られていたためフン場ではないかと思われます。Googleマップで見るとすぐ近くに車道があるようですので、ひょっとしたら車道からも見える場所なのかもしれません。いずれにせよアクセスも容易な場所なのでしょう。藪をかき分けないとたどり着かないような場所だと往復するだけでも大変ですから。
研究にあたっては、A1が長期的に安定したためフン場であることも重要だったはずです。
ためフン場はいつでも固定した場所に存在するわけではありません。短期間しか使われないためフン場もあります。新しいためフン場を探すにはフィールドをくまなく捜査しなければならず、非常に大変なことです。安定したためフン場は定点調査にとってはとてもありがたいものです。
16年論文によると「毎週日曜日午後2時に最も新しいフンを採取した」と書かれています(p144)。この作業はおそらく陛下ご自身が行われたのでしょう。もっとも、公務がお忙しいのでそういう時は共同研究者などの代理が採取をしたと思われます。
ためフン場に行けば必ず新しいフンがあるかというと、実際はそうでもありません。安定したためフン場であってもです。
16年論文によると5年間毎週日曜日に計261回A1に行ったものの、フンが採取できたのは164回、63%でした(p145〜146)。つまりA1へ出かけても3回に1回は手ぶらで帰っていたことになります。この回収率、意外と低いと思われる方は多いと思いますが、私の経験からも「やっぱりそうですよね」と言えます。この不確実性がためフン研究の難所と言えます。
16年論文の末尾(p152〜)には5年間の全採取の記録の表が掲載されていますが、2013年は半年間ずっと新しいフンがなかったことがわかります。2011年はさらに回収率は低く、44%でしかありませんでした。フンがなければ分析もできないわけで、研究する者としてはあせってしまう状況です。
新しいフンが無かった時期を表から調べてみると、温暖期(春〜夏)に多いことがわかります。秋から冬の寒冷期はだいたい安定して採取できています。
夏少ないのは、非常に高温だとフンが数日で自然分解してしまう(昆虫や微生物がよってたかって食べ尽くしてしまう)ためかもしれませんが、それでもタヌキが来ていれば新しいフンにまったく遭遇できないということはないはずです。これはタヌキが来ていなかったということを意味します。
秋にフンが増えるのは、いろいろな果実が成るため、そして冬に向けて食いだめをするためと推測できます。
ためフン場の利用状況からは、タヌキの行動が季節によって大きく異なっていることがわかります。例えば、夏はタヌキの行動範囲が狭くなるということを意味しているのかもしれません。
私のためフン調査でも同じような傾向が見られましたので、これは皇居だけの特殊なものではないと考えられます。
フンの内容物の全体の分類はp148の表5に示されています。
動物性の中ではやはり昆虫が非常に多く(出現率98%)、ムカデ類(chilopods、同66%)が続きます。タヌキは動物食の面では「昆虫食」あるいは「小動物食」と言ってもいいでしょう。
植物性のものは果実が出現率100%で、間違いなく「果実食」と言えます。「葉など」が少数出現していますが、これは葉っぱを自覚的に食べているのではなく、地上のものを食べる時に混入してしまったと考えられます。
タヌキは「雑食」であるとよく説明されますが、これは何でもかんでも食べているという意味ではありません。上記のように動物性のものも植物性のものも食べるものの傾向はあるのです。
同じ雑食のハクビシンが皇居内で生活していた場合、その食べ物の傾向はタヌキとは違っているはずです(ハクビシンの場合はかなり果実食に偏るだろうと推測されます)。
食べ物の傾向は動物の種類や生活環境によって変化します。「雑食」の一言で片づけてしまっては何も理解できません。
フンからは「人工物」も少数出てきています。その具体的な内容は書かれていないのが残念ですが、08年論文では「ビニール片、綿、風船、ゴム製シート、ティッシュ、ゴム製品、レジ袋」と記述されています。
私の経験からま、人工物(人間由来物)にはビニール断片、ポリ袋断片、輪ゴムが多いことがわかっています。
皇居内はあまり人がいない印象がありますが、働いている職員さんはそれなりに多いはずなのでゴミが多少は出ているということかもしれません。住宅地に比べれば格段に少ないのでしょうが。
16年論文では、特に果実に注目しています。
まず、p146の表3に挙げられた植物の日本名を列挙しておきます。草本と分類されるものにはそれを追記しておきました。一般的に草本は背が低く、タヌキでも口が届くでしょう。木本では果実は高い所に成ります。
Aphananthe aspera ムクノキ
Rubus hirsutus クサイチゴ
Celtis sinensis エノキ
Ficus erecta イヌビワ
Idesia polycarpa イイギリ
Machilus thunbergii タブノキ
Morus spp. クワ属
Cerasus spp. サクラ属
Diospyros lotus マメガキ
Polygonum longisetum イヌタデ(草本)
Ginkgo biloba イチョウ
Oxalis corniculata カタバミ(草本)
Liriope muscari ヤブラン(草本)
Cornus controversa ミズキ
Stellaria neglecta ミドリハコベ(草本)
Delphinium anthriscifolium セリバヒエンソウ(草本)
Akebia quinata アケビ
Hovenia dulcis ケンポナシ
Cornus kousa ヤマボウシ
Eurya japonica ヒサカキ
Trifolium dubium コメツブツメクサ(草本)
Potentilla freyniana ミツバツチグリ(草本)
Achyranthes bidentata var. japonica イノコヅチ(草本)
Oplismenus undulatifolius チヂミザサ(草本)
Potentilla spp. キジムシロ属(主に草本)
Stellaria aquatica ウシハコベ(草本)
Diospyros kaki カキノキ
Echinochloa spp. ヒエ属(草本)
Stellaria spp. ハコベ属(草本)
Ligustrum japonicum ネズミモチ
Ajuga decumbens キランソウ(草本)
Houttuynia cordata ドクダミ(草本)
Disporum smilacinum チゴユリ(草本)
Albizia julibrissin ネムノキ
Carpinus laxiflora アカシデ
以上の植物が挙げられていますが、出現が多かったのは上位8種で、他は主食とは言えないようです。
上位8種についてはp146でそれぞれ説明されていますので、ここではなぜこれらがタヌキに選ばれたのかを解説しましょう。
選ばれた理由は、もちろん食べられる(毒がない)、味が良い、ということもあるのでしょうが、現実的には「入手しやすい」ということが特に重要となります。ここでは、「タヌキは木に登らない」という生態も関わってきます。木登りが得意なハクビシンはカキノキ(柿)やビワをよく食べることがわかっています。が、タヌキの場合、上記リストのようにこれらはほとんど食べていません。つまりタヌキは地面に落ちた果実を食べるしかないわけです。
トップのムクノキは、私も確認したことがあるのですが、実がよく落ちる方です。これはタヌキにとってはありがたいことです。おそらく他の上位の樹木の果実も比較的落下しやすい種類だと推測されます。カキノキはあまり落下しない方ですが、果実が大きいので1つ落ちているだけでもごちそうになると言えます。果実がよく落ちる種類としてはイチョウ(ギンナン)がありますが、さすがにこれは味が良くないのか人気がないようです。
上位8種の内、クサイチゴは例外です。クサイチゴは背が低く、タヌキでも口が届く位置に実がなるためたくさん食べられているようです。ところで、クサイチゴはイチゴと同じで(厳密には同一ではありませんが)、果実の表面に小さな多数のゴマのような種子がついています。大きさは1mm程度です。つまり、フンを分析すると非常に多数の小さな種子が現れるわけですが、これをひとつひとつ全部数えるとなると日が暮れてしまいます。「10個以上は数えない」というルールがあるのはこういうことがあるからなのです。
サクラ属についてもちょっと説明しておきます。
サクラとは皆さんおなじみのソメイヨシノのことではありません。ソメイヨシノはあまり実をつけませんし、つけても地面に落ちる前に鳥に食べられてしまうでしょう。
ここではソメイヨシノ以外の品種または「サクランボ」が多数成るミザクラ類(いわゆる桜桃)のことを指していると思われます。ただ、おそらく皇居内にはいるいろな品種のサクラがあるため、それぞれの品種の同定ができなかったか、あるいはひとまとめにして「サクラ属」と扱うことにしたかのどちらかだろうと思われます。
p149からの「Discussion」(考察)ではさらに詳しい分析が述べられています。
p149では「the short-term berry type」「the long-term berry type」という聞きなれない用語が登場します。「berry」は「柔らかい小果実」のことですが、ここでは果実一般を意味するようです。
「the short-term berry type」は柔らかく、水分の多い果実、例えばクサイチゴ、タブノキが挙げられています。これらは果実が落ちた直後の短い期間だけ食べられます。
「the long-term berry type」は比較的固い果皮を持つ果実、例えばムクノキ、エノキが挙げられています。こちらは落ちてから数ヶ月は食べられる「貯蔵食」にもなります。
また、p149では上記リストに含まれなかった種子についても言及されています。「イチョウの果皮」「イチョウの種子の殻の断片」「ブナ科の種子(いわゆるドングリ)の殻の断片」「カキノキ科の果皮」といったものです。果実が少なくなる春先は固いギンナンやドングリをかみ砕いて中身を食べているようなのです。
p150ではツキノワグマ(Ursus thibetanus)についての言及もあります。
ツキノワグマの研究では、果実類の豊作・不作によって食べ物の種類が変化することが知られています。
皇居内の果実の豊作・不作は調べられていませんが、タヌキのフンからはムクノキは安定した食べ物であることがわかります。
皇居の豊かな自然は、タヌキの長期的生息を維持できる安定した食料供給ができているのだろう、と述べられています。
天皇陛下は魚類の研究者としても知られています。陛下はまさに「科学者」でもあるのです。
ただし、大学や研究機関に所属しているわけではないので「プロ」あるいは「職業科学者」とは言いにくい存在です。これは言い換えれば、地位や金とは無縁だということです。
純粋な科学的好奇心、科学的探求心が陛下の研究の原動力なのです。
天皇陛下は16年論文発表時に82歳でしたが、このご年齢でもこのような好奇心・探求心をお持ちになっているというのは素晴らしいことであり、驚くべきことです(高齢者の皆様、あなたはどうでしょう?)。
今年は天皇陛下の生前退位問題もあり、いろいろな方がいろいろな視点から天皇陛下のことを語っています。
私から見た天皇陛下は「ひとりの純粋なサイエンティスト(科学者)」です。このことは特に強調しておきたいと思います